正しい悲しみ
九重稜介は出社すると、社員証より先に感情スコアを読み取り台へ置く。体温と同じように朝の数値を記録するのが、全社員の日課だった。いつもの「平静七十四」を確認し、彼は三階の企画室へ入った。
隣の席だけが空いていた。
由良が事故で死んだと知らされたのは、昨夜だった。大学時代からの友人で、同じ会社に誘ってくれた男だった。帰宅途中、自動運転の配送車にはねられたという。稜介は通話を切ったあとも皿を洗い、歯を磨き、目覚ましをかけた。何一つ現実にならなかった。
九時、端末に通知が来た。
《故人・秋津由良に関する忌引申請を受け付けました。悲嘆値五十以上で承認されます》
稜介は手首を載せた。
《悲嘆値九。申請却下》
課長は視線をそらしながら言った。
「制度上、親しい同僚だった証拠がないんだ。午後の提案、頼めるな?」
「今日が葬式です」
「なら、悲しめばいいだろ」
稜介はトイレへ行き、由良との写真を開いた。泥だらけで笑う大学祭、初任給で食べた焼肉、先月の飲み会。何度見ても、頭の中には今日の提案資料の誤字ばかり浮かんだ。数値は十一にしかならない。
給湯室で、由良とほとんど話したことのない総務の女性が泣いていた。失恋したばかりだと誰かが言っていた。彼女が試しに申請すると、端末は悲嘆値六十三を示した。
《忌引を承認します》
「私が休んでいいのかな」
彼女は泣きながら笑った。
稜介の画面には、由良が作った提案書の最終ページが残っていた。発表者欄だけが空白だった。
午後一時、葬儀開始の通知と同時に、会議室の扉が閉まった。ネクタイの結び目は、朝に由良の机から借りた黒いものだった。誰も、その色の意味を尋ねなかった。
稜介はスクリーンの前に立ち、由良の口癖だった「まず、面白いほうから話します」をそのまま読んだ。声が一度だけ詰まった。
手首の数値が四十九まで跳ね上がる。
あと一つ上がれば退出できる。しかし顧客たちは、彼の沈黙を演出だと思って身を乗り出していた。
《高い共感効果を検出。プレゼンテーションを継続してください》
葬儀場から届いた焼香開始の通知が、画面の隅で消えた。