正時の目覚まし
野々村志緒里が千刻堂へ持ち込んだ目覚まし時計は、いつも五分進んでいた。丸い文字盤の縁は剥げ、裏蓋には父の字で「触るな、これで正しい」と書いた紙が貼ってある。
父は待ち合わせに遅れることを何より嫌い、この店へ電池交換に来るたび、必ず五分進めてもらったという。半年前に亡くなったあとも、志緒里は時計を直さなかった。朝は五分前に起き、駅へ五分前に着き、頼まれた仕事は期限より早く返した。父の正しさを守っているというより、五分遅れた自分を誰かに責められるのが怖かった。
会社では今月から人が減り、土曜の当番を志緒里が引き受ける前提で話が進んでいた。正式な命令ではない。断ればいいだけなのに、課長から届いた「いつも助かる」の一文を開くたび、断る理由を長く書き直した。土曜には、三か月前から申し込んでいた製本講座がある。受講料も払った。それでも自分の予定を仕事より先に置くことが、ひどく身勝手に思えた。
店主は目覚ましを分解し、歯車の埃を細い刷毛で払った。裏蓋の紙は剥がさず、透明な袋へ入れて修理票に留めた。そのうえで、時刻合わせのつまみを回した。
壁の標準時計と、目覚ましの長針がぴたりと重なった。五分は残されなかった。
志緒里が「父は進めて使っていました」と言うと、店主はうなずきも否定もせず、時報ラジオをつけた。正午の音が鳴る瞬間、秒針を十二へ合わせる。さらに試験のため六時へベルを設定し、鳴る直前で止めるのではなく、最後まで鳴らしてからスイッチを切った。
会計では、修理票の「持主」欄に父の名が残っていた。店主は定規を当てて一本線を引き、志緒里の名を新しく書いた。父の紙は時計へ戻さず、小さな封筒に入れて別に渡した。
店を出ると、スマートフォンは十一時五十九分を示していた。目覚ましも同じだった。志緒里は長い断り文を全部消し、「土曜は予定があるため担当できません」とだけ入力した。
十二時になるのを待ち、送信した。今度は、一分も早くなかった。