海まで行かない
鴻上美弦は、海沿いのチャペルからゴルフカートで逃げた。
運転席には誰もいなかった。式場の坂道を下り、駐車場の端で止まったところへ、白川果歩が追いついた。果歩は旅が好きで、荷物はいつもリュック一つ。今日も二次会のあと、そのまま空港へ行く予定だった。
美弦はカートのハンドルを握ったまま言った。
「来月から、シンガポールだって」
新郎の海外赴任は、半年後の可能性があると聞いていた。ところが披露宴用の映像には、新居の写真と出発日まで入っていた。美弦の会社にはまだ何も言っていない。新郎は「式が終われば、きっと前向きになれる」と思っていたらしい。
果歩なら行く。知らない街、新しい仕事、二人分の航空券。そんな話を聞けば胸が躍る。美弦がなぜ、海まで続く青い空を前にして動けなくなるのか、完全にはわからなかった。
「パスポート、彼が持ってる」
その一言で、果歩はカートを降りた。本人が決めていない旅に、本人の身分証だけが先に運ばれている。それは冒険ではなかった。
二人は新郎の控室へ戻った。果歩がスタッフに事情を話し、美弦は扉の外で待つ。鞄の内ポケットからパスポートを取り戻すと、果歩は表紙の名前を確かめ、本人へ返した。航空券の控え、海外保険の申込書、会社の退職願のひな型まで同じ封筒に入っていた。
美弦は退職願だけを破ろうとした。果歩は止めた。
「捨てるのは、あとで自分で」
封筒ごと手渡す。決める権利まで奪い返すためだった。
海へ向かう送迎バスが、写真撮影の客を乗せて出ていく。果歩は反対方向の路線バスを調べた。終点は駅前。二人分の席を予約し、近くのビジネスホテルを二部屋取った。
「一部屋でいいよ」と美弦が言う。
「私は一人で寝たい」
果歩は平然と答えた。慰め役になるために、自分の境界まで消すつもりはない。その代わり、美弦の大きなスーツケースを片方の手で引いた。
バス停で、美弦はヒールを脱ぎ、果歩は予備の靴下を渡した。海風にベールの端が揺れる。二人はそれを追わず、折り畳んで鞄へ入れた。
やがて駅行きのバスが来た。二人は別々の切符を買い、同じ列に並んだ。