海を怖がる人魚と泡守り薬

崖上の薬屋《潮待ち》には、海から来る客のために床まで続く水路がある。

その日、水路の端で立ち尽くしていたのは、人魚のネルシャだった。濡れた銀髪を胸へ貼りつけ、尾びれを震わせている。

「海へ戻れないの」

店主イオニアが理由を尋ねると、ネルシャは首筋の鰓を押さえた。

半月前、漁網に絡まって溺れかけた。それ以来、塩水へ顔を沈めるだけで鰓が閉じる。陸では息ができても、故郷の珊瑚町までは泳げない。潮が引く今夜を逃せば、水路は一月閉ざされ、家族へ生存を知らせることもできない。

「水が怖い人魚なんて、笑うでしょう」

「薬屋は、症状を笑いません」

イオニアは泡の詰まった透明瓶を一つ取った。

「泡守り薬です。鰓へ塗れば、最初の十呼吸だけ、海水が空気のように感じられます」

「十回で町まで行けない」

「十回あれば、怖くない呼吸を体が思い出します。その先は、あなたの鰓が続ける」

ネルシャは瓶を握ったが、水路へ入れない。

そこでイオニアは桶へ海水を汲み、店の床へ置いた。

「ここなら、失敗しても陸です」

薬を塗った鰓に、小さな泡が並ぶ。

ネルシャは両手で桶の縁を掴み、顔を沈めた。一呼吸。肩が跳ねる。二呼吸。閉じかけた鰓が、泡に守られてゆっくり開いた。

三、四、五。

六度目に、彼女の指から力が抜けた。桶の水面へ小さな歌の泡が浮かび、恐怖で忘れていた人魚の呼吸音が戻ってくる。

十度目が終わっても、顔は水の中にある。十一度目。薬の泡は消えていた。それでも鰓は自分で動いた。

ネルシャは勢いよく顔を上げた。頬を流れるものが海水か涙か、イオニアには分からなかった。

「十一回、できた」

「十二回目も」

「海で試す」

彼女は水路へ滑り込み、崖下へ続く青い流れを見た。一度だけ振り返り、真珠を一粒カウンターへ投げる。

「代金。次は珊瑚貨で払うわ」

「真珠は高すぎます」

「帰れた値段としては安い」

尾びれが水面を打つ。ネルシャは海へ飛び込み、一度沈んだ。

すぐに銀の髪が沖へ現れた。十二度目の呼吸をしている。

イオニアが真珠を瓶の隣へ置くと、水路から新しい濡れた足跡が続いてきた。

ちりん、と鈴が鳴る。

今度は、海藻色の鱗を持つ影が扉の向こうにいた。