深海から浮上する言葉
水深六千二百メートル。犬束陵介が沈没艇の黒箱へ手を伸ばすと、表示窓に一文が浮かんだ。
〈第三隔壁を開けるな。〉
次の瞬間、遠隔潜水艇の腕が圧壊し、映像が暗転した。陵介は五時間前の母船で目を覚ました。胸元には真鍮の水深計。海底の黒箱は、回収時に一文だけ過去へ音響送信できるらしい。
沈没事故で死んだのは調査員六人。黒箱を十八時までに回収すれば、陵介の会社は整備不良の疑いを晴らし、国際入札へ残れる。それが成功条件だった。
二周目、陵介は第三隔壁を避けた。今度は沈泥に埋まり、酸素切れ。三周目は左舷から接近。六周目は切断工具を一本減らした。黒箱へ触れるたび一文を五時間前へ送り、同じ水深計の針を見た。
〈北側二十メートル、海底亀裂を越えるな。〉
十一周目、黒箱を母船へ持ち帰った。十八時まで残り四分。甲板で歓声が上がり、会社の弁護士が回収成功の書類を差し出した。
録音を再生すると、事故直前の会議音声が流れた。
『圧力警報は誤作動だ。予定通り潜れ』
命じた声は陵介だった。納期を守るため警報を切り、点検を翌日に回した。事故後、記録が失われたのを利用し、下請けの整備員へ責任を押しつけていた。周回を始めた目的は会社の潔白ではなく、自分の嘘を完成させることだった。
黒箱の表示窓が最後の入力を促す。
〈回収成功を固定するには、起点の一文を送信してください〉
真鍮の水深計には六人の爪痕のような傷がある。陵介は「第三隔壁を開けるな」を消した。
〈潜水を中止し、圧力警報を切ったのは犬束陵介だと全員へ告げろ。〉
五時間前。
陵介は出航前の会議で、その一文を読み上げた。調査は中止され、黒箱は海底に残った。会社は国際入札から外れ、陵介は業務上過失の捜査を受け、潜水資格を永久に失った。
数か月後、港の倉庫で彼は真鍮の水深計を箱へしまった。針はゼロを指していた。
海の底に真実を取りに行かなくても、沈めたのが自分だと認めれば、時間は浮上する。そのことだけが、免許証のなくなった財布より重く残った。