温室脇の緑の椅子
住吉谷圭那は、市民植物園の温室へ毎週水曜に行く。
花を育てる趣味はなく、植物の名前もほとんど知らない。目的は温室の脇にある、緑色の鉄の椅子だった。
椅子は二人掛けだが、平日の午後はたいてい空いている。
前には香草の小さな区画があり、風が吹くとローズマリーやミントの匂いが来た。
圭那はそこで弁当を食べ、本を少し読み、何もしないまま一時間ほど過ごす。
家では、高齢の父と暮らしている。
仲は悪くない。ただ、テレビの音量や薬の時間、夕飯の相談が絶えない。
職場では、窓口に立ち、途切れず人の話を聞く。
緑の椅子へ座ると、誰の返事もしなくてよかった。
ある水曜、椅子に「塗装中」の札があった。
職員が錆を落とし、新しい緑を塗っている。
圭那は落ち着かず、温室を一周した。大きな葉、赤い花、白い根。見ても居場所が決まらない。
出口へ戻ると、職員が声をかけた。
「いつも座ってますよね」
「覚えてるんですか」
「椅子の方が覚えてるかも。右側だけ塗装が擦れてた」
圭那は少し恥ずかしくなった。
「私、座りすぎでしょうか」
「座るための椅子です」
職員は刷毛を置き、温室裏の木箱をひっくり返した。
「今日は仮席」
圭那は木箱へ座った。
高さが低く、膝が上がる。いつもの景色とは違い、香草の葉を横から見られた。
職員が折れたレモンバームの葉を一枚くれた。
指で揉むと、明るい柑橘の香りがした。
「椅子、同じ色ですね」
「少し濃くしました。前の色が廃番で」
「変わるんですね」
「屋外ですから」
翌週、塗り直された椅子へ座った。
表面はつるりとして、以前の傷がなくなっている。少し寂しい。
けれど右側へ腰を下ろすと、座面の高さも背もたれの角度も同じだった。
圭那は弁当を開き、父が朝入れてくれた卵焼きを食べた。
風が来て、レモンバームと土の匂いが混じる。
新しい塗装へ、圭那のコートの金具が小さな跡をつけた。
自分の椅子ではない。それでも座るたび、また少しずつ誰かの時間が重なっていく。
温室脇の緑は、変わりながら同じ場所で、圭那が何者でもなく座る午後を待っていた。