湯上がり二人前
深雪は銭湯の食事処で、瓶の牛乳だけを頼んだ。友人の鞠子と来るはずだったが、三日前の言い争いから連絡が途絶え、結局ひとりで湯につかったのだ。
それなのに店主の浅羽は、湯気の立つクリームシチューを置いた。
「注文してません」
「二人前セットの片方です」
怪しいのは浅羽、世話好きの常連・佐代、それから来なかった鞠子。佐代なら事情を聞き出して何かしそうだし、浅羽は二人が毎月ここで食べることを知っている。
盆にはスプーンが二本あった。食券は中央からきれいに半分に裂かれている。人参は星ではなく、半月形だった。鞠子はいつも星形に抜き、深雪にだけ「子どもっぽい」と笑われていた。
「鞠子が、半分だけ残したんですね」
浅羽はもう片方の半券を見せた。湯上がりセットは返金できないため、鞠子は自分の分を深雪へ回してほしいと電話してきた。ただし星形の人参にすれば、すぐ自分だと分かる。だから普通に切ってくれ、と頼んだらしい。
喧嘩の原因は、深雪の転職だった。安定した会社を辞めると聞いた鞠子は、「逃げるみたい」と言った。心配だったのに、止めたい気持ちを正しさのように投げてしまった。
「本人、裏の休憩所にいますよ」と佐代が言った。「謝る勇気が湯冷めしてる」
二本目のスプーンは、そのためだった。
二人は十年、相手の進路に口を出せることを親しさだと思ってきた。深雪も以前、鞠子の同棲話に『早すぎる』と言ったことがある。心配と支配の境目を、近い相手ほど見失う。転職を理解してもらうことより、分からないまま隣にいてもらう方が難しいのだと、深雪はようやく気づいた。二本のスプーンは、正しさを分ける道具ではなく、黙った時間をすくうために見えた。
湯気の向こうで、裏口の引き戸が一度だけ小さく鳴った。鞠子も、返事を待ちながら同じ匂いを嗅いでいるのだろう。
深雪はスマートフォンを出した。長い文章はやめて、シチューの写真だけを送る。すぐに既読がついた。
――人参、星じゃない。
深雪は一口飲んだ。少しぬるくなったミルクの甘さが、喉に優しかった。
――冷める前に来て。