潮騒の塩抜きうどん

港町の食堂《淡海》は、海のそばにありながら塩をほとんど使わない。そのせいで漁師には「味のない店」と呼ばれ、店主ペトラは開店二日目から看板を蹴られていた。

夕暮れ、扉を開けたのは、青い髪から水を滴らせる女だった。名はシェルナ。海底王国の使者で、首筋には銀色の鰓が並んでいる。だが鰓の縁は白く固まり、口を開いても波が引くような音しか出ない。

海から急に陸へ上がったせいで、体に濃い塩が残りすぎたらしい。今夜、領主の前で通商の誓いを自分の声で述べなければ、海底王は「使者を侮辱した」と船路を閉ざす。水を飲んでも、喉を通る前に吐き戻してしまうという。

ペトラは大鍋から《塩抜きうどん》を一杯だけよそった。真水で打った太い麺、雨茸から取った淡い出汁、柔らかな水菜。海藻も塩漬け肉も入れない。湯気だけが、静かな潮のように立つ。

シェルナは箸を知らず、指で麺をつまもうとした。ペトラは何も言わず、木匙で短く切る。客は一口すすり、驚いて目を見開いた。

「味がない」と言われ続けた出汁を、彼女は二口、三口と飲む。薄いからこそ、乾いた喉に引っかからない。温かな真水が内側から巡るたび、鰓の白い結晶が溶け、首筋を小さな雫になって落ちた。

半分を食べたところで、シェルナの呼吸音が変わった。波音ではなく、人の息になる。

「海と陸は――」

最初の声は掠れた。彼女は残りの麺をゆっくり噛み、最後の出汁まで飲み干す。それから胸に手を当て、もう一度言った。

「海と陸は、互いの水を奪わない」

今度は、一語も欠けなかった。

シェルナは目元を拭い、髪飾りから真珠を一粒外した。ペトラが銅貨三枚だと告げても、卓の上から動かさない。

「これは味の代金ではありません。声を返してくれた、水の代金です」

「薄すぎませんでしたか」

「海で生まれた私には、初めて知る陸の味でした」

使者は背筋を伸ばして領主館へ向かった。夜半、港の閉鎖を知らせる旗は下ろされ、代わりに青と白の通商旗が上がる。

翌朝、《淡海》の前には真珠の箱が一つ届いていた。蓋には海底文字で、ただこう刻まれていた。

――使者用、塩抜きうどん二十杯。