濡れた靴の女将

雪ノ浦綾音は、大雨の朝、高級旅館〈白峰庵〉へ入った。

泥のついたレインコートに長靴。川沿いの排水路を確認してきたため、髪まで濡れていた。

帳場へ客室の空きを尋ねると、支配人の有栖野義孝は宿泊台帳を閉じた。

「避難所でしたら公民館です。当館は一泊十五万円からになります」

「今夜、川が増水した場合の避難経路を見たいんです」

「見学だけの方を館内へ入れるわけにはいきません」

若い仲居がタオルを差し出そうとしたが、有栖野は「品格が下がる」と止めた。綾音は濡れた床を自分で拭き、仲居の名前だけ聞いて帰った。

午後、雨脚が強くなった。町役場から避難協定の確認が入り、旅館では親会社の新代表を迎える臨時会議が始まる。

有栖野は玄関へ高級車を待たせた。

現れたのは、乾いた作務衣へ着替えた綾音だった。

雪ノ浦家は、〈白峰庵〉を含む旅館・温泉・山林を所有する観光会社の創業家。綾音はその新社長であり、旅館の土地と源泉の所有者でもあった。前社長だった祖母から経営を継ぎ、最初の仕事として災害対応を匿名で確認していたのだ。

有栖野は深く頭を下げた。

「社長とは知らず、一般のお客様との混乱を避けるためでして」

「避難してきた人が、社長かどうか確認する時間はありますか?」

監査資料が配られた。有栖野は町との避難協定を“高級旅館の雰囲気に合わない”として現場へ周知せず、従業員用備蓄も来賓向け倉庫へ移していた。

綾音は、タオルを出そうとした仲居へ避難誘導責任者の腕章を渡した。彼女は協定を自主的に読み、外国人客用の案内まで作っていた。

川の水位警報が鳴る。

綾音は玄関の敷居を外し、町民を大広間へ受け入れるよう指示した。

有栖野が支配人札へ手を伸ばす前に、人事担当が札を外した。管理権限も停止される。

最初の避難者へ若い仲居が乾いたタオルを渡し、帳場の表示が〈宿泊客専用〉から〈地域避難所〉へ切り替わった瞬間、濡れた靴を追い返した支配人だけが、自分の旅館ではなかった場所から退くことになった。