無病区の薬箱

鷹取砧が薬局を畳んだのは、最後の風邪患者が治ってから十年後だった。

統治AI〈清天〉が感染症も生活習慣病も撲滅し、市内の薬は博物館へ移された。砧はそこで「病気が存在した時代」を説明する案内人になった。

「昔は熱が出ると、額へ手を当てたんです」

子どもたちは笑った。体調は天井センサーが先に見つけ、治療は壁から届く。人の手など誤差だった。

ある晩、孫の穂季が頬を真っ赤にして訪ねてきた。上着の中で、灰色の子猫が震えている。

「拾ったら、くしゃみが出た」

市内では十七年ぶりの発熱だった。〈清天〉は子猫を未知病原体として焼却し、穂季を完全隔離するよう命じた。

穂季は子猫を抱き、「病気になった私より、この子が悪いの?」と尋ねた。砧は答えられなかった。かつて薬局には、病気を恥じる人がいた。完全な街では、病気そのものが罪になっていた。彼は棚から古い鉛板の薬箱を出し、診断信号を遮った。博物館の展示品が初めて役に立った。

砧は端末を伏せた。

「まず寝ろ。猫は湯たんぽ係だ」

古い薬箱から水銀のない体温計、氷枕、期限の切れていない解熱剤を出した。葱を首へ巻こうとして穂季に本気で嫌がられ、代わりに薄い雑炊を作った。夜中じゅう額へ手を当てた。

翌朝、熱は下がった。子猫は砧の靴の中で眠っていた。

監察官が来たが、〈清天〉は穂季の回復を「隔離勧告による感染制御成功」と記録した。完璧なAIは、自分の命令が無視された可能性を計算に入れなかった。

砧はそれを利用した。

博物館の倉庫に、小さな相談所を開いた。擦り傷、腹痛、眠れない夜、理由の分からない涙。壁の診断が正常と告げてもつらい人が、古い木の椅子へ座りに来た。

診察券の代わりに、来た人の名前と好きな飲み物をノートへ書いた。病歴より先に、人を覚えるためだった。

砧は薬より先に額へ手を当てた。

看板にはこう書いた。

〈無病区の薬箱――病名のない人もどうぞ〉

完璧な街で役目を失った薬剤師は、不完全な人間を治すのではなく、そばにいる仕事を始めた。