無詠唱ではなく無命令

「魔力ゼロ。詠唱以前の問題だな」

自律魔導科の教官ハインツは、久世朔へ故障寸前の練習杖を投げた。実技試験では、三体の鉄人形へ歩行命令を与え、白線まで進ませる。朔の前の鉄人形だけは錆び、片腕が取れかけていた。

朔は、動けない人形を失格品と呼ばなかった。外れかけた腕を布で結び、足元の砂を払ってやる。その様子を見た教官は「人形に気を遣う暇があるなら詠唱を覚えろ」と笑った。

貴族生たちの人形は命令どおり行進した。だが首席の声が高ぶった瞬間、命令術式が実技場の制御網へ逆流する。保管庫の扉が開き、戦争用の黒鉄騎兵まで起動した。

百体の騎兵が、生徒を敵と認識して剣を抜く。胸の命令板には《反抗者を排除せよ》の赤い文字が点り、首席自身が解除を命じても反応しない。幼年部から見学に来ていた子どもたちが壁際へ追い詰められ、錆びた練習人形が壊れた腕でその前に立とうとした。

教官たちは停止句を唱えたが、上位命令で上書きされていた。鉄の足音が一つに重なり、実技場の床が震える。

朔には、物を動かす魔法はなかった。代わりに、命令と服従の糸だけが黒い鎖として見えていた。

《能力・命令権破棄――存在に結ばれた命令を、一度だけすべて無効にする》

朔は杖を置き、指を鳴らした。

鎖が切れた。

黒鉄騎兵の剣が止まり、百体の腕が同時に下がる。歩行中の練習人形も、壁の清掃箒も、天井を回る監視眼も停止した。さらに学院塔の上で鳴り続けていた服従の鐘まで、初めて沈黙する。

ところが、朔の前の錆びた人形だけが一歩踏み出した。

命令ではない。倒れかけた体で白線まで歩き、自分の意思で朔の隣に立ったのだ。続いて黒鉄騎兵たちも剣を床へ置き、彼へ向かって騎士の礼を取った。

朔は二度目の指を鳴らさなかった。もう必要がなかった。

教官ハインツは、自分の杖に刻まれた支配紋が消えているのを見て青ざめた。観覧席の機巧王アルデバランが立ち上がり、王冠を外す。

「命令せずして従われる者を、我が国では何と呼ぶか」

誰も答えられない。

王は朔へ一礼した。

「少なくとも、落第生とは呼ばぬ」