焼きたての自由

倒産したパン屋の競売目録には、最後に小さくこう書かれていた。

 石窯一基、発酵棚二台、兎獣人一名。

 店を落札したパン職人マルタは、目録を三度読み直した。

「人まで厨房設備に数えるの?」

「所有契約ではそうなっております」

 債権商バザルが指した先で、兎獣人トトが無言で生地をこねていた。右手首には麦穂形の呪印。石窯と結ばれ、焼き上がりの鐘が鳴るまで手を止められない。

「昨日から何個こねたの」

「百二十七です」

「休んで」

「所有者の許可ではありません」

 バザルが笑い、譲渡用の焼き印を差し出した。

「ここへあんたの店印を重ねれば従う。腕は確かだぞ」

 マルタは焼き印を受け取り、石窯へ放り込んだ。

「私の店印は、パン袋に押すものよ」

 トトの手は止まらない。指の皮が裂け、生地に赤が混じりかけた。

 マルタは発酵棚から古い種生地を取り出す。先代が百年継いだ、生きた酵母だ。

 呪印の麦穂は、働かせた回数を魔力として蓄える術式だった。働くほど強くなる。ならば、その魔力を食べるものを与えればいい。

 マルタは種生地をトトの手首へ貼りつけ、砂糖水を一滴垂らした。

 酵母が一気に膨らむ。麦穂の線を餌にして、呪印の内側から泡が立った。

「やめろ! 契約を壊せば店の資産価値が——」

「人を資産に入れた帳簿ごと、焼き直しなさい」

 ぱん、と小気味よい音がして、呪印が薄皮のように剥がれた。

 同時に石窯の鐘が鳴る。トトの両手が初めて、自分の意思で生地から離れた。

「裏口は開いてる。治療費と三日分の食費は袋に入れたわ」

「働かなくて、いいのですか」

「自由って、休むのにも許可がいらないことよ」

 トトは袋を抱え、朝の街へ出ていった。

 マルタは一人で焦げた厨房を掃除した。夜明け前、店先の戸が鳴る。

 戻ってきたトトは、薬を塗った両手で新しい木札を掲げた。

『共同パン工房 マルタとトト』

「逃げる場所ではなく、帰る店を選びました」

 彼は誰にも急かされず、休ませた手で最初の生地を丸める。

 焼き上がりの鐘が鳴る前から、厨房には自由の匂いがふくらんでいた。