焼き上がりは日曜日
パン屋で働くひかりは、店長に一枚の同人誌を差し出された。
表紙には、焼きたてのパンを抱えた魔法使い。週末、ひかりが「麦灯り」の名で描いている料理漫画だった。
「これ、君だよね」
開店前の厨房で、オーブンの予熱音だけが響く。
ひかりは反射的に否定しかけた。店では地味で手の遅い新人。休憩室では先輩たちの流行の話に頷くだけで、休日の予定はいつも「家事」と答える。漫画では、パンの断面や湯気を何時間もかけて描く。職場のレシピを盗んだと思われたらどうしようと、店名も制服も徹底的に変えていた。
店長は奥付を開いた。
「謝らなくていい。昨日、娘が見せてきた。作中の塩パンを作りたいって」
「店の配合は使ってません」
「読めば分かる。うちより水分が多いし、発酵時間も違う」
職人らしい指摘に、ひかりは肩の力を抜く暇もなかった。
「ただ、このページ」
店長が示したのは、主人公が失敗した生地を捨てず、平たく焼く場面だった。
「先月、君が焦がしたクロワッサンをラスクにしただろう。あれから描いた?」
ひかりは頷いた。失敗を叱られなかった日が嬉しくて、形を変えて残した。
「仕事を勝手に漫画にしたのは……」
「技術を持ち出したんじゃなく、気持ちを持ち帰ったんだろう」
店長は本を閉じた。
「日曜のイベント、差し入れを焼くなら材料表示をきちんとしろ。店の名前は出さなくていい。でも厨房を貸す」
ひかりは驚いた。いつも通販で買った菓子を袋に詰め、自作だと誤解されないよう黙っていた。
「いいんですか」
「パンを好きな人が、パンの漫画を描く。変なことじゃない」
その日の閉店後、ひかりは小さな丸パンを試作した。漫画に出した蜂蜜入りの配合で、店の商品とは違う。焼き上がると甘い匂いが厨房に満ちた。店長は一つ割り、断面を確かめてから「漫画より穴が小さい」と笑った。ひかりも、今度は言い訳せず笑った。
袋のラベルに、原材料と製造日を書く。製造者欄でペンが止まる。
これまでは本名だけだった。
ひかりはその横に、括弧で書き足す。
(麦灯り)
日曜の日付を記したラベルを、まだ温かい袋へ貼った。