片刃の刀鞘
ナディムが敵陣へ持ち込んだのは、刀ではなく鞘だった。
黒鮫皮に銀の環。片側だけが焼け焦げている。砂漠王国ラフマーンの王子が持つ曲刀の鞘で、昨夜、王子本人から奪った。
王子は生きている。味方の地下牢にいる。その事実を南門砦へ届ければ、砦兵は人質を盾に一夜だけ持ちこたえられる。だが紙の命令は検められる。口だけでは信じられない。だから王子の鞘が証拠になった。
ナディムは捕虜商人を名乗り、鞘を頭上に掲げて敵の外柵へ歩いた。
「王子殿下の遺品を買う者はいないか」
槍が三本、喉へ向いた。
「どこで盗んだ」
「死体から」
敵兵の顔色が変わった。王子の死を公にしたくない軍と、手柄として首を欲しがる将たち。ナディムはその割れ目へ足を入れた。
幕舎へ連行され、副将ザハルの前へ膝をつかされた。ザハルは鞘を受け取り、焼け焦げた側を撫でた。
「殿下の刀は右腰だ。なぜ左側だけ焼けている」
「落馬したあと、焚火へ倒れた」
「殿下は左へは倒れぬ。幼い頃の傷で、左脚が曲がらない」
知らない事実だった。ナディムは沈黙した。嘘を足せば沈む。
ザハルは鞘口を鼻へ近づけた。血の匂いはない。刀を抜いたばかりなら油が残る。鞘は空のまま長く運ばれてきたと分かる。
「王子は生きているな」
ナディムは笑った。
「生きている方が、お前には都合がいい」
副将は王子の叔父と通じている。王子が死ねば叔父が即位する。生きて捕らわれているなら、救出の名目で兵権を握れる。
「南門砦へ行け。そこで捕虜交換を申し出ろ」
ザハルは自ら護衛をつけた。ナディムを通すことが、彼自身の野心になった。
夜明け前、南門砦の胸壁で守将ハディールが鞘を受け取った。焼け焦げを見て、銀環の内側にある小さな噛み傷を確かめる。王子が苛立つと歯を立てる癖は、近習だけが知っていた。
「何を要求できる」
「日の出までの停戦。援軍は半刻後です」
ハディールは鞘を城外へ掲げた。
敵の進軍太鼓が止まり、南門砦に停戦の白旗が上がった。