片耳だけの深夜便
柳瀬は夜勤帰り、片耳だけで音声配信を聴く。
両耳を塞ぐと、後ろから来る自転車や、濡れた道路を走る車が分からなくなる。右耳には配信、左耳には町。二つの夜を並べて歩くのが習慣だった。
午前三時二十八分。雨はやんでいたが、街路樹から雫が落ちている。コンビニの室外機が低く回り、信号機の制御箱から小さなファンの音がした。
配信のタイトルは「帰る人のための十分間」。
知らない女性が、今日見たものを一つだけ思い出してください、と言った。立派なものでなくていい。床に落ちた光でも、自動販売機のボタンでもいい、と。
柳瀬は横断歩道の手前で立ち止まった。
目の前のクリーニング店は閉まっている。シャッターの上に、防犯灯が白い円をつくっていた。円の端へ雨水が流れ、光がゆっくり揺れている。
配信のコメント欄には、短い言葉が一つずつ流れた。
「猫の背中」
「洗ったコップ」
「駅の赤い時計」
柳瀬は書き込まなかった。白い円を自分だけの中に置いた。
信号が青になる。歩行者用の電子音と、配信者の声が片耳ずつで重なる。向こう側から傘を持った人が一人歩いてきた。すれ違う瞬間、その人のイヤホンからも誰かの話し声がほんの少し漏れた。
同じ配信かどうかは分からない。確かめる理由もない。二人は顔を上げず、それぞれの方向へ進んだ。
配信者は「家に着いたら、ここから先は聴かなくても大丈夫です」と言った。
柳瀬のアパートが見えた。階段の照明は一段おきに暗く、二階の廊下では換気扇が一定に回っている。
玄関の前で再生を止める。まだ配信は三分残っていたが、続きを誰かに預けるように画面を閉じた。
室内へ入ると、廊下で聞こえた換気扇は扉一枚ぶん遠くなった。配信の履歴には途中停止の印が残ったが、柳瀬は続きを明日へ回す設定にもせず、そのまま閉じた。
鍵を回すと、部屋は冷えていた。片耳に残った声もすぐ薄くなる。柳瀬は灯りを点け、濡れた靴をそろえた。白い円のことを思い出せるうちは、今夜の帰宅を一人で終えても大丈夫だった。