片袖だけの時計師
西園寺澄花が失ったのは、六月の最初の一週間だった。
月曜に出社した記憶の次が、翌週の火曜。机には退職届の下書き、冷蔵庫には知らない店のスープ、スマートフォンには「無事でよかった」という同僚のメッセージが並んでいる。誰に訊いても、澄花自身が「大丈夫」と言ったらしい。
駅裏の大庭時計舗で、大庭伊織は右袖だけを肘までまくっていた。左袖は指先まで垂れ、銀色のボタンで留められている。
「手を貸すのは片方だけ」
伊織は澄花の社員証一体型スマートウォッチを受け取った。
「もう片方は?」
「自分で使う」
感じの悪い答えだった。しかも伊織は、失った七日間を全部戻すのは危険だと言う。
「私の記憶なのに」
「だから危険なんです。持ち主は、壊れるまで使う」
右手で裏蓋を開き、左袖の先で盤面を覆う。時計から漏れたのは、蛍光灯の白さと、キーボードの乾いた音だった。
月曜深夜、会議室で企画書を直す澄花。火曜未明、給湯室で吐き、また席へ戻る澄花。水曜の午前四時、画面の文字が読めなくなり、床に座った澄花。そこへ清掃員が来て、救急車を呼んだ。
澄花は唇を噛んだ。「その先も見せてください」
「必要ない」
「誰がスープを置いたのか知りたい」
伊織はしばらく黙り、左袖のボタンを一つ外した。
病院を退院した夜、同僚が玄関前にスープを置く。澄花は扉を開けず、内側から「明日は行けます」と答えた。同僚は座り込み、「行かなくていい」と、扉越しに一時間言い続けた。
記憶が白く抜けたのは、その言葉をようやく受け入れて眠った瞬間だった。
「思い出せないのは、弱いからですか」
「逆です。脳が先に退職した」
伊織は時計を閉じ、退職届の下書きを印刷して添えた。さらに心療内科の予約票まである。澄花が驚くと、右肩をすくめる。
「手を貸すのは片方だけ。予約を取り直すか、会社へ送るかはあなたの手です」
店を出ようとした澄花の足がふらついた。伊織は舌打ちし、今度は左袖もまくった。そこには古い腕時計が何本も巻かれていたが、説明はしない。
両手で椅子を引き、温めたスープを置く。
「今日は例外」
澄花は退職届を送信する前に、まずスプーンを握った。借りた手ではなく、自分の手で休むために。