片道だけの靴

披露宴が終わると、茉白はホテルの化粧室で靴を履き替えた。

銀色の細いヒールから、底の減った黒いスニーカーへ。鏡の前には同じようにパンプスを脱ぐ女性が何人もいて、みんな一日の役目から降りていくように見えた。

幼なじみの巴世は、地元の海が見える式場で結婚した。茉白の席には手書きのカードがあり、〈遠くから帰ってきてくれてありがとう〉とあった。

遠く、といっても電車で二時間だ。茉白は七年住んだ街を、近いとも遠いとも決められずにいた。

バッグの中には、札幌の出版社から届いた採用通知がある。契約社員、一年更新。今より給料は下がる。引っ越し代も出ない。今日の正午までに返事をする約束だったが、担当者に頼み、夜九時まで延ばしてもらっていた。

地元へ戻る選択肢もあった。母は駅前の文具店を一人で続けている。巴世もここで暮らす。「そろそろ帰ってくれば」と言われるたび、茉白は否定も肯定もしなかった。

式の送賓で、巴世は茉白の手を握った。

「次に帰ってくるの、お正月?」

茉白は笑って、「たぶん」と答えた。

九時五分前。ホテルのロビーには、地元行きと空港行き、二枚の時刻表が置かれていた。茉白は採用担当へ電話をかける。

「お受けします」

声にした途端、母の店のシャッター、巴世の新居、今の会社の机が、一度に遠ざかった。胸が躍るより先に、失うものの数がはっきりした。

電話を切ると、母から写真が届いた。式場の花を一輪もらい、店のレジ横に飾ったらしい。

〈巴世ちゃん、きれいだったね。今度はあなたのいい知らせを待ってます〉

茉白は〈今、決めたことがある〉と打ち、消した。まだ祝ってもらう形にしたくなかった。

代わりに〈年末は帰れないかもしれない〉と送る。

既読はすぐについた。返事を待たず、茉白は空港行きの時刻表を一枚取った。今日は乗らない。けれど折り目をつけてバッグへしまう。

銀のヒールは箱に入り、スニーカーだけが床を踏んでいた。どこへ行くにも、自分の足で減らすしかない靴だった。