牡蠣を土手から下ろす

権藤蘭は、土鍋の縁に塗られた味噌を、箸の先で少しずつ汁へ落としていた。

友人四人で囲む牡蠣の土手鍋。今夜は、蘭が勤める小さなデザイン会社の創立五周年祝いでもある。会社を始めたのは、大学時代からの親友だ。蘭は最初の社員として、名刺もサイトも最初の顧客資料も作った。

来週、蘭は退職届を出す。

親友にはまだ言えない。会社が嫌いになったのではない。むしろ、自分がいなければ回らないと言われるたび、抜けることが裏切りに思えた。けれど蘭は、自分の名前で仕事を受けるための事務所を、すでに契約している。

会社が赤字だった最初の年、二人は交代で事務所へ泊まった。親友が営業から戻るまで蘭が電話を取り、蘭が落ち込めば親友がコンビニの甘い物を机へ置いた。その時間まで持ち出していくようで、独立の準備をするたび胸が痛んだ。

味噌の濃い香りが立った。牡蠣は火が通るほどふっくら膨らみ、土鍋の縁は指を近づけるだけで熱い。

親友が、いちばん大きな牡蠣を蘭の皿へ入れた。

「功労者に」

蘭は笑い、牡蠣を味噌の薄いところへ移した。濃い味をまとわせれば、感謝を全部受け取ったことになる気がした。

壁には五年前の集合写真が飾られている。蘭の肩には親友の腕が回り、二人とも会社と友情の境目を知らない顔をしていた。だから今、その境目を引くことが、写真の二人を否定するように感じられた。

蘭は牡蠣を半分だけ噛み、残りを皿へ戻した。中途半端な切り口から白い身が見える。親友はそれを見て、鍋の縁から味噌を落とす手を止めた。

蘭は鞄から新しい事務所の鍵を出し、皿の脇へ置いた。説明は一文で足りた。

「来月から、ここを出る」

親友は鍵を持ち上げなかった。代わりに鍋の中の牡蠣を一つ、味噌の濃い土手から中央へ下ろした。

「じゃあ、これは独立祝い」

蘭は残していた半分を食べた。祝いの意味が変わっても、牡蠣の柔らかさは変わらなかった。

最後に蘭は、親友のためではなく自分のために、縁の味噌を一筋だけ汁へ溶かした。濃くなった鍋を囲む席は、会社を離れてもなくならなかった。