犬に春を一つ

志筑晴生が一歳分を売った相手は、人間ではなかった。

十二歳の雑種犬ポロは、冬を越せないと診断されていた。動物用寿命移植は高価で、原則として家畜や補助犬にしか認められない。だが闇市場の獣医は、中学生の晴生へ言った。

「君の一年なら、この犬に三か月は足せる」

晴生は迷わなかった。ポロとは生まれたときから一緒だった。三か月あれば、桜をもう一度見せられる。

施術後も、晴生には変化がなかった。予測死亡年齢が八十一から八十になっただけだ。家族には黙っていた。

ポロは元気を取り戻した。雪の日に庭を走り、三月には散歩の距離が伸びた。晴生は毎日、桜のつぼみを確認した。

ところが四月の初め、父が契約記録を見つけた。

「犬のために命を売ったのか!」

父は晴生を殴りそうな手を途中で止めた。母は泣いた。二人にとって一年は、息子の結婚式か、孫の顔か、最後の正月かもしれなかった。

「僕の一年でしょう」

「お前一人の一年じゃない」

その言葉に晴生は怒った。

「じゃあポロの三か月は誰のもの? 家族なのに、犬だから買っちゃだめなの?」

答えられる者はいなかった。

桜が満開になった日、家族で川沿いへ行った。ポロは花びらを鼻につけ、昔のように晴生の周りを回った。父は何枚も写真を撮った。

帰宅した夜、ポロは晴生の布団の横で眠り、そのまま目を覚まさなかった。移植された三か月を使い切る前だった。

晴生は契約が無駄になったと泣いた。獣医へ返還を求めたが、売った寿命はすでに市場で分割され、取り戻せないという。

父は、桜の写真を一枚だけ現像した。

「一年で三か月を買ったんじゃない」

「じゃあ何を買ったの」

「お前が、自分で別れを選ぶ時間だ」

晴生は納得できなかった。死んだ犬にも、失った一年にも、値段をつけたことが間違いだった気がした。

それから長いあいだ、彼は動物を飼わなかった。三十歳で保護犬施設の獣医になり、寿命移植を勧めることもしなかった。ただ、別れが近い家族に、残り時間の過ごし方を一緒に考えた。

八十歳の誕生日、晴生はまだ生きていた。

庭の桜を見上げると、ポロの鼻についた花びらを思い出した。一年を失った実感はなかった。けれど、あの春を買った選択だけは、人生のどこにも売り戻したくないと思った。