猫のいる間取り
樺沢理央が匠海から同棲を提案されたとき、最初に見たのは彼ではなく、膝の上の猫だった。
灰色の猫は、何も知らずに喉を鳴らしている。
理央は軽い猫アレルギーがある。短時間なら薬で抑えられるが、一晩泊まると朝には目が腫れた。匠海は毎回丁寧に掃除し、寝室へ猫を入れない。それでも同じ家で暮らせば、薬を飲まない日はなくなるだろう。
「空気清浄機、もっと大きいの買うよ」
匠海は言った。猫を手放すとは言わなかった。言わない彼を、理央は好きだった。
二十九歳の誕生日に同棲を始める。そんな区切りはきれいだった。薬を飲めば済むことを理由に断る自分は、共同生活に向かない人間にも思えた。
翌日、不動産会社から一回だけ電話が来た。匠海のマンションと同じ階に、ワンルームの空きが出たという。以前、理央が冗談半分で問い合わせた履歴が残っていた。
机には二枚の募集図面が並んだ。匠海の一LDKには、猫の足跡がついた写真。隣のワンルームには、何もない白い床。家賃を二つ払う生活は、同棲より不経済だ。周囲からは、なぜ一緒に住まないのかと訊かれるだろう。
電話口で担当者が言った。
「お隣なら、今日中にお申込みいただければ押さえられます」
理央は猫の毛がついた黒い鍵と、自分の部屋の銀色の鍵を机に置いた。二本を一本に減らすことだけが、関係を進める方法ではない。
「隣の部屋に申し込みます」
匠海へ伝えると、長い沈黙のあと、「それ、同棲じゃないじゃん」と返ってきた。
「うん。同棲は選ばない。でも、あなたの隣に住むのは選びたい」
内見した隣室では、壁の向こうから小さく猫の走る音がした。近いのに、触れなければ届かない距離だった。理央はその不便さを少し悲しいと思った。薬を飲まずに眠れる朝と、匠海の隣で目覚める朝を同時には持てない。隣室は両方を半分ずつ叶える魔法ではなく、両方の不足を残す部屋だった。
納得してもらえる保証はない。高い家賃も、別々の玄関も残る。それでも理央は申込金を振り込み、猫に触れたあとの手で、自分の部屋番号を入力した。