理科室の月食
月食の日、科学部の望遠鏡は理科準備室に施錠されていた。
観測会は天候不良の予報で中止になった。ところが夜になると雲が切れ、月が見え始めた。
「今から学校行く?」
グループ通話で彼女が言った。
冗談のはずだった。
二十分後、私たちは校門の前にいた。
科学部顧問から預かったことのある倉庫の暗証番号を、彼女は覚えていた。望遠鏡を持ち出すだけなら外でもよかったが、校庭には外灯が少なく、観測には都合がいい。
大人には言えない計画が、月の欠ける速さで進んだ。
体育倉庫の陰から望遠鏡を出し、校庭の中央へ運ぶ。
月は左側から黒くなっていた。
「赤くなるまで、あと三十分」
彼女はスマートフォンを三脚へ固定した。
私は時刻を記録した。
科学部は春に二人だけになる。彼女は受験で退部し、私は部長になる。観測会が中止になったままでは、最後の活動が顧問の連絡一枚で終わる。
「卒業したら、夜中に学校へ来る理由なくなるね」
「普通は今もない」
笑ったあと、急に静かになった。
月が赤銅色へ変わる。
校舎の窓も、白線も、普段とは違う色に見えた。昼間の学校が、大人たちの決めた時間割から外れて、私たちだけの場所になった。
彼女が望遠鏡を譲った。
接眼レンズの中で、月の縁がかすかに光っている。
「部長、観測記録よろしく」
「まだ部長じゃない」
「今、引き継ぐ」
彼女はノートを差し出した。
最後のページに、今日の日付と二人の名前を書く。部の正式な活動ではない。学校へ提出もできない。
それでも、いちばん忘れたくない観測だった。
警備の車が近づき、私たちは望遠鏡を抱えて倉庫へ走った。泥のついた靴で滑り、二人とも転びそうになった。
翌日、顧問は望遠鏡の脚についた土を見て首をかしげた。
私たちは何も言わなかった。
卒業式の日、彼女は科学部のノートを私へ渡した。
「夜の記録は、公開しなくていい」
赤い月の写真は少しぶれていた。
でも、そのぶれまで含めて、私たちしか知らない引き継ぎの印だった。