痛い場所の指
二十八歳の江口未久は、右の奥歯が痛むたび、温かいお茶を左側で飲んだ。仕事が忙しい、予約が取りづらい、放っておけば治るかもしれない。理由を並べているうちに二か月が過ぎた。
痛いと言うのが苦手だった。美容室で湯が熱くても黙り、靴擦れしても歩き、残業を頼まれれば「平気です」と答えた。弱さを見せると、周りの予定を止めることになる気がした。歯の痛みも、自分一人で収めるべき小さな迷惑だと思っていた。先週のプレゼンでは、噛みしめた瞬間に言葉が途切れた。上司に心配されても『少し寝不足で』と答え、会議後には鎮痛剤を二錠飲んだ。痛みそのものより、心配をかけたことのほうを失敗として数えた。
駅前のクリニックが並ぶ通りで、クラリネットを吹く保坂征一を見かけた。細い音が夕暮れへ伸び、途中で高く震えた。車の音に紛れそうなのに、息を継ぐ瞬間だけ、通りの騒がしさが薄くなった。未久は立ち去る時機を失った。その音が奥歯に響き、未久は思わず頬を押さえた。
保坂が楽器を下ろす。
「音が痛いとき、耳はどこへ逃げるんでしょうね」
未久は答えられなかった。保坂は次に長い一音を吹き始め、空いている手で自分の肩を指した。
「この音が続くあいだ、隠している痛い場所を一つ押さえてみてください」
奇妙な頼みだった。未久は周囲を見た。誰も彼女を気にしていない。音が細く伸びる。頬に触れた指先へ、脈のような痛みが返ってきた。押さえれば消えるどころか、ここにあると輪郭がはっきりした。
保坂は音を終えても、治療法も励ましも口にしなかった。ただケースの中の楽譜を裏返し、次の曲を探した。
その夜、未久は歯科医院の予約ページを開いた。症状欄へ「違和感」と書き、消す。「軽い痛み」と書き直し、また消した。頬に残る指の跡を鏡で見る。予約枠は翌朝八時半だけ空いている。遅刻の連絡を考えると手が止まった。
未久は症状欄に「二か月前から、右奥歯が痛いです」と入力し、理由を添えずに予約を確定した。