白い返事

閉店後の喫茶「薄明」に、卯月旺介が戻ってきた。

「ノート、忘れた」

「わざと?」

カウンターを拭いていた城戸いさなが言うと、旺介は困ったように笑った。

明日の朝、彼は北の町へ引っ越す。

三年間、毎週木曜の七時に同じ席へ座り、カフェラテを飲みながら設計図を描いた。いさなは三年間、ミルクを注ぎながら、木曜だけ一週間が短いと思っていた。

それでも送別会では「向こうでも元気で」と言った。彼も「店、続けてね」と答えた。

大人の別れは、正しい言葉ほど役に立たない。

ノートは窓際の席にあった。

旺介は受け取っても帰らず、カウンターに座った。

「最後に一杯、だめ?」

「もう機械を洗った」

「じゃあ、お湯」

「お客さんに白湯を出す喫茶店じゃない」

いさなは文句を言いながら、もう一度エスプレッソマシンを起こした。

カップへ注いだミルクの表面に、細い線が浮いた。

ハートでも葉でもない。

泡がゆっくり寄り集まり、ひらがな二文字になった。

すき。

いさなの手が止まった。

旺介も黙った。

誰かが外を歩けば、笑い声でごまかせたかもしれない。だが閉店後の店には、冷蔵庫の低い唸りしかない。

いさなはスプーンを取り、文字を崩した。

「失敗」

「何を描くつもりだったの」

「熊」

「二文字の熊?」

「最近の熊は省略されるの」

旺介はカップを持ち上げたが、飲まなかった。

「今の、どっちのだろう」

「ミルクの?」

「うん」

「牛じゃない?」

「牛が僕を引き止める理由は?」

「寒い地方は牛乳の競合が多いから」

旺介が笑った。けれど目は笑っていなかった。

「僕のだったら、困る?」

いさなは布巾をたたみ直した。角が合わず、何度やってもずれた。

「私のだったら?」

「困る。明日の切符を捨てたくなる」

「捨てれば」

「軽く言うね」

「三年かけて、やっと言ったのよ」

旺介はノートを開き、最後のページを破った。朝一番の列車番号を書き、その下に、帰りの日付を書いた。

「半年。待ってて、とは言わない」

「じゃあ?」

「帰ったら、閉店前に来る」

「普通のラテしか出ないよ」

「それでいい。次は自分で言うから」

彼は冷めかけた一杯を飲み干した。

カップの底に文字はなかった。

翌朝、いさなは店の黒板に「本日のおすすめ 白い返事」と書いた。

意味を尋ねる客には、熊のラテアートだと答えた。

半年後の木曜日だけは、説明を考えていなかった。