白い靴のまま走る
十二歳の颯真は、スタート地点で自分の足元を見た。
洗っても落ちない泥のついた白い運動靴。地方選抜の百メートル測定会。
隣のレーンの遼平が、赤い新品のスパイクを差し出す。
「そんな靴じゃ恥ずかしいだろ。俺の予備、貸してやるよ」
前の人生と同じ親切そうな声だった。
貧乏を笑われたくなかった颯真は履き替えた。号砲から三歩目、右足の鋲が抜けて転倒。靱帯を切り、選手生命を失った。遼平は「整備不足なんて知らない」と言い、代わりに選抜入りした。颯真は松葉杖のまま表彰式を見せられ、母が買えなかった靴を責める噂まで聞いた。悔しかったのは転んだことより、借りた自分の選択だった。
三十歳でスポーツ用品店に勤めた颯真は、あのスパイクの鋲だけが意図的に浅く締められていたと気づいた。
今、赤い靴がまた目の前にある。
颯真は受け取らなかった。
「白い靴で走る。速さは色で決まらない」
周囲から笑いが起きる。遼平は舌打ちし、赤いスパイクを自分の荷物へ戻そうとした。
「待って」
颯真は審判を呼び、借りる前の確認として靴底を見せた。右前の鋲だけ、指で触れただけで落ちる。
審判の顔が変わった。
「これは誰の靴だ?」
遼平は答えられない。
颯真は白い靴の紐を結び直した。未来で知った完璧なフォームも、鍛えた筋肉も戻ってはいない。ただ、転ぶ恐怖がないだけで、身体は驚くほど軽かった。
号砲。
泥の染みた靴が土を蹴る。
ゴールした瞬間、颯真は後ろを振り返らなかった。電光板だけを見る。
前の人生で表示されたのは「転倒・記録なし」だった。
数字が点滅し、会場記録を〇・一秒更新する。
観客席の母が、古いタオルを振っていた。
審判は赤いスパイクを証拠袋へ入れ、選抜監督が颯真の前へ来る。
「靴を買えない選手は困る」と言われると思った。以前、遼平がそう吹聴していたからだ。
監督は白い靴を見て、初めて違う言葉を口にした。
「その靴で出した記録なら本物だ。代表用の一足は、こちらで用意する」