白壁に残す手形

ネージュの魔法は、濡れたものを乾かすだけだった。

洗濯係としては便利だが、宮廷魔術師の席には相応しくない。そう評され、彼女は辺境の廃農場へ送られた。着いた廃屋は、皮肉にも雨水を吸った土壁が崩れかけていた。

西の壁には腕ほどの亀裂が走り、そこから冷たい風が笛のように鳴る。屋根も床も傷んでいるが、ネージュは桶を一つ置いた。

今日直すのは、壁の亀裂だけだ。

亀裂の向こうには夕暮れの畑が細く見えていた。景色としては美しいが、冬になれば雪も同じ道を入ってくる。ネージュは布を詰めるだけの応急処置をせず、春まで持つ壁を作ることにした。

畑の土を掘り、刻んだ藁と混ぜ、井戸水を少しずつ加える。裸足で踏むと、泥はひやりとして、指の間から柔らかく盛り上がった。王宮では裾を汚しただけで女官長に叱られたが、ここでは泥の跳ねた頬を笑う者はいない。

藁の長さを揃え、土の中へ向きを変えて重ねる。王宮の洗濯物を乾かすときも、布ごとに風の強さを変えていた。誰も気づかなかった細かな加減が、古い壁にはそのまま強さになる。

練った土を両手で亀裂へ押し込む。奥まで詰め、表面を撫でる。最後に《乾燥》を使うと、淡い風が掌から広がり、濡れた壁の色がゆっくり明るくなった。急に乾かせば割れる。だから魔力を細く、息を吐くように流す。

日が傾く頃、笛の音が止んだ。

ネージュは壁から手を離した。白土の表面に、小さな手形が一つ残っている。消そうと思ったが、やめた。誰が直したか、家が覚えていてもいい。

暖炉の上では、茸と玉葱のシチューがとろりと煮えていた。木匙で混ぜるたび、鍋底からこつ、こつ、と穏やかな音がする。焼いた胡桃を散らすと、香ばしい匂いが立った。

戸口に立っていたのは、隣の畑の老婦人だった。雨で濡れた小麦の種袋を抱えている。

「乾かせる人が来たって、本当かい。全部でなくていい。明日の種まき一列ぶんだけでも」

役に立たないと言われた魔法を、必要だと言う声だった。ネージュは種袋へ手を伸ばしかけ、シチューの湯気を見て止めた。

「明日の朝に。今夜は壁を直したお祝いをします」

老婦人は怒らず、籠から人参を二本置いた。

「それがいい。働いたあとは食べな」

風の鳴らない部屋で、シチューの湯気だけが揺れていた。

ネージュは自分の手形を眺めながら、温かな椀を引き寄せる。明日は小麦を乾かし、その次は人参を煮よう。王都では与えられなかった予定が、食卓の上に二本並んでいた。