白鹿商会の三行目
白鹿商会の役員会で、支店長ディモス・ハーグは大口契約書を机へ置いた。
「北境公との独占交易をまとめたのは私です。若い書記には到底できない交渉でした」
書記ラウラナ・キースは壁際に立っていた。三十日間、北境の倉庫を回り、凍結する街道の代替案を作り、税率を半分まで下げたのは彼女だ。ディモスは署名直前に現れ、契約書から担当者名を切り取った。
「彼女は茶を運んだ程度です」
役員たちの笑いに、ラウラナは目を伏せない。
会頭が契約書の三行目を指した。
「成功報酬の受取人が空欄です。交渉責任者として、支店長のお名前を記入しますか」
ディモスは羽根ペンを取り、迷いなく自分の名を書いた。
「当然でしょう」
さらに《全交渉を自ら行った》という確認欄にも署名した。ラウラナを追い出すため、彼自身が追加させた条文だった。責任者を一人に固定すれば、部下が報酬を主張できないと考えたのだ。
会頭が契約書へ商会印を押す。
三行目の文字がほどけ、銀色の別文へ変わった。
北境公の契約紙は、交渉中に使われた合言葉の発話者を責任者として自動登録する。盗難防止の仕組みで、最終署名まで名は見えない。
――交渉責任者、ラウラナ・キース。
その下に、三十七回の面談日時と、彼女の声紋が並んだ。
ディモスは契約書を奪おうとした。
「そんな仕掛けは聞いていない!」
「北境公から説明を受けた者なら知っているはずですが」
会頭の一言で、彼の手が止まる。
最後に赤い一文が浮かんだ。
――虚偽の責任者が署名した場合、当該者は違約金の全額を個人負担し、商会との雇用契約を失う。
ディモス自身が書かせ、自分で署名した条文だった。
ラウラナは三十日分の交渉記録を説明しなかった。契約書がすでに、彼女の仕事を一日ごとに示している。
契約書の銀文字はさらに組み替わり、成功報酬の受取欄へラウラナの名を刻んだ。北境の倉庫、街道、税関で彼女が交わした三十七の合言葉が、小さな星印となって周囲を囲む。役員たちはもう、壁際の書記を見習いとは呼べなかった。
会頭は机の引き出しから解雇通知を出し、日付を読み上げた。
「ディモス・ハーグ支店長。虚偽申告および契約詐欺により、本日付で白鹿商会を懲戒解雇とする」