百年ぶりの当番

不破冬青の住む六百階建て住宅には、当番という言葉がなかった。掃除も配膳も修理も自動で、住民同士は顔を知らなくても困らない。冬青は隣人の名前さえ、壁面表示でしか見たことがなかった。

太陽嵐で管理網が止まった夜、地下の貯水槽から水があふれた。非常放送は、百年前の手動手順を読み上げた。

――各階二名を選出し、階段で地下へ。排水口まで容器を用いた搬送列を形成してください。

誰も動かなかった。選出の方法が分からないのだ。

冬青も実際に水を運んだことはなかった。祖母の話を古臭い自慢だと思い、聞き流していた。だから声を上げたあとで、容器をどこから集めるか、列を何人で区切るか、何も分からないことに気づいた。

「分からないから、一緒に決めよう」

その一言が一番難しかった。住民は正解のない相談に慣れていない。意見がぶつかるたび管理AIの復旧を待とうとしたが、水位表示は上がり続けた。冬青は、間違っても次を決めるしかなかった。

七十八歳の冬青だけが、子どもの頃に祖母から聞いた町内会を思い出した。

「まず、廊下に出て。自分の名前を言って」

扉が少しずつ開いた。寝巻き姿の住民たちは、容器の持ち方も水の量も相談できない。冬青は声を張り、体の強い者を下へ、子どもと老人を上へ並べた。二十杯目で腕が上がらなくなり、見知らぬ青年が黙って場所を代わった。

途中で一人が転び、列が止まった。誰かが傷を洗い、誰かが泣く子を抱いた。効率は悪かったが、名前だけは次々と渡っていった。

水が腰まで来た階では、幼い姉妹が空の容器を運んだ。役に立つ量ではなかったが、列の大人たちは必ず受け取り、「ありがとう」と次へ渡した。冬青は、その二文字が水より速く階段を上るのを聞いた。

明け方、管理網が復旧し、機械が残りの水を三分で吸い上げた。廊下も服も瞬時に乾いた。非常事態は終了し、住民には解散が通知された。

それでも誰もすぐ部屋へ戻らなかった。

「来週も集まりませんか」と青年が言った。「水は運ばなくていいから」

翌週、住民たちは各階の花壇へ手で水をやった。管理AIは、不要な重複作業だと注意した。

冬青はじょうろを隣へ渡した。

「そうだね。でも、あなたの名前を忘れないための当番なの」

六百階を、遅い水と人の声が上っていった。