皺のある黒豆
千田亜矢が冷凍庫から祖母の黒豆を出したのは、七月の終わりだった。
正月に持たされた小さな保存袋が、霜をかぶって残っていた。冷蔵庫には調味料しかない。口座の残高は四百十二円。明日の家賃は払えない。
母には、仕事は順調だと言っている。亜矢の写真投稿には、新しい服と白い食器と、窓の大きなカフェが並ぶ。撮影用の服は返品し、飲み物は一杯を三時間かけて撮った。祖母から借りた十万円も、撮影機材に使ったと嘘をついた。ほんとうは、前月の支払いを次のカードで埋めただけだった。祖母は返済日を聞かず、代わりに「食べたものを見せて」と週に一度連絡してきた。亜矢は撮影した外食の写真を送り、台所の空っぽの棚だけは映さなかった。
解凍した黒豆から、醤油を含んだ甘い香りがした。冷たい蜜は指へ薄くまとわり、一粒ずつ舌で押すと、皮がなめらかに割れた。
祖母の黒豆は、全部が同じ形ではない。袋の底に、皺の寄った一粒があった。
亜矢は撮影するとき、そういう豆を裏へ隠す。祖母は皿へ盛る前に選別せず、「鍋に残った順」と笑った。レシピ帳にも、煮汁の温度の横へ〈皺を見つけても戻さない〉と書いてある。
亜矢は艶のある豆から食べた。十粒、二十粒。空腹なのに、ゆっくり数えた。食べ終われば、冷凍庫にも投稿できるものにも、何もなくなる。袋を開けなかったのは非常食にするためではない。祖母へ嘘をつく前の正月が、そこだけ凍ったまま残っている気がしたからだった。
最後に皺のある一粒だけが皿へ残った。
スマートフォンを立て、いつもの白い布を敷く。皿を中央へ置き、加工画面を開いた。明るさを上げれば、皺は消えかけた。
亜矢は加工をやめた。
その一粒を指でつまみ、写真には空の皿だけを残す。皺の溝へ蜜が入り、ほかより濃い甘さがした。
投稿画面ではなく、母との会話を開く。銀行の残高と、祖母への借金を書いた。何度も消した末、最後に一行足す。
〈怒られてもいいから、一緒に明細を見てほしい〉
送信すると、空の皿を伏せた。完食の写真は撮らなかった。
祖母へ返す最初のものは、十万円ではなく、皺を隠さない亜矢だった。