砂糖なしの和平契約
魔族の祝杯は、蜜を三杯入れるほど甘い。
エヴァは一口で気分が悪くなるため、いつも唇をつけるふりだけしていた。
和平会議の朝、彼女の杯には苦い薬草茶が入っていた。魔王セラフィルが自分で給仕へ命じたらしい。
「砂糖は一粒も入っていない」
「皆と違って、失礼では?」
「余の客に不快を強いるほうが失礼だ」
最強の魔王は、反対した将軍三人を視線だけで黙らせた。だがエヴァが熱いものをすぐ飲めないことまで覚え、杯の横へ冷ますための銀匙を置く。
会議が始まり、長い和平契約が読み上げられた。
最後の頁で、エヴァの名が出た。
「人間側の保証人エヴァは、魔王セラフィルの婚約者として魔界へ永住する」
彼女は頁をめくり直した。そんな条項は昨日までなかった。
人間の宰相が笑う。
「あなたが魔王陛下に特別なのは周知の事実です。和平の楔になってもらいます」
「嫌です」
一言で、広間が静まった。
宰相は声音を変える。
「戦争を再開させたいのか」
「和平は望みます。でも、結婚を条件にはされたくありません」
セラフィルは契約書を手に取った。
「この条項を入れたのは誰だ」
「両国の安定のため、我々が」
「本人に聞かずに?」
黒い炎が婚姻頁だけを縁取る。紙は燃えたが、隣の和平条項には焦げ跡一つ残らない。
魔族の大臣が慌てた。
「陛下、保証が消えます!」
「保証は軍と法で作れ。彼女の人生を杭にするな」
セラフィルは新しい契約書をエヴァへ向けた。
「和平の保証人を続けたいか」
「それは続けたいです。人間領と魔界を行き来できるなら」
「記せ」
書記が慌てて往来自由の条項を書き加える。
宰相はなお食い下がった。
「婚約なき寵愛では、国民が納得しません」
セラフィルは甘い祝杯を床へ捨て、エヴァの苦い茶だけを掲げた。
「国民に説明せよ。余が彼女を望むことと、彼女が余を選ぶことは別だ」
二つの国の印章が、婚姻欄のない契約へ押された。
「和平は成立。婚約は不成立。エヴァの『嫌だ』を戦争の脅しで変えさせることを、両国の重罪とする」