祖母の口紅
結婚式の朝、茉帆は祖母の登美へ化粧をした。
登美は新婦の祖母として、薄紫の服を着ている。普段は化粧をしないので、鏡の前で落ち着かなかった。
「口紅は薄くして」
「写真だと少し濃いくらいがいいよ」
茉帆は自分の化粧道具を広げた。祖母の肌へ粉をのせ、眉を整える。最後に薔薇色の口紅を塗る。
登美は唇を合わせ、鏡を見た。
「若すぎない?」
「今日くらい」
会場では大勢に囲まれ、二人で話す時間はほとんどなかった。登美は写真を撮られるたび、口元を気にしていた。
披露宴が終わり、控室で茉帆が白いドレスを脱ぐと、祖母が入ってきた。
「落ちかけてる」と言い、同じ口紅を借りた。
今度は自分で塗る。少し輪郭からはみ出し、茉帆が指で直した。
「昔、おじいさんと初めて映画を見た日も、こんな色だった」
祖父は五年前に亡くなっている。登美はそれ以上話さず、鏡へ笑ってみせた。
翌週、茉帆は同じ色の口紅を一本買い、祖母へ送った。
しばらくして届いた写真には、近所の食堂で珈琲を飲む登美が写っていた。唇だけ薔薇色で、少し得意そうだった。
茉帆は自分の一本を開けて香りを嗅いだ。油と花粉のような化粧品の匂い。その奥に、結婚式の控室で触れた祖母の頬の温度が残っていた。
夏、登美は口紅を持って一人で映画館へ行った。祖父と初めて見た映画の再上映だった。帰りに茉帆へ電話し、内容はほとんど忘れていたと笑う。それでも暗い座席で、昔と同じ香りを感じたという。秋に会うと、口紅は少し短くなっていた。茉帆が塗り直そうとすると、登美は自分で鏡を持つ。「はみ出しても、今度は直さなくていい」。薔薇色の線は少し揺れたが、湯飲みに残った唇の跡は、結婚式の日よりはっきりしていた。
登美は口紅を使い切る前に、次の一本を自分で買った。色は少し明るかった。茉帆が驚くと、「来年はもっと若くする」と笑う。カップの縁に二つの薔薇色が並び、珈琲の湯気へ油と花の香りを落とした。