空いた七時半

金曜の午後六時二十八分、恵麻は会社の更衣室で片方のピアスをつけたところだった。

スマートフォンが震え、今夜会う予定の相手からメッセージが届いた。

〈ごめんなさい、急な残業で行けなくなりました。また日を改めてもいいですか〉

待ち合わせは七時半。駅前のイタリアンを予約したのは恵麻だった。昼休みにメニューを見て、仕事が終わったら化粧室で口紅を塗り直そうと決めていた。

〈大丈夫です! お仕事頑張ってください〉

そこまで入力して、指が止まった。大丈夫ではなかった。怒るほどではないし、急な残業なら仕方がない。けれど楽しみにしていた一時間が急に空くと、自分だけが予定の外側へ置かれたような気がした。

鏡の中では、右耳だけに小さな金色が光っている。恵麻は左のピアスをケースへ戻し、右も外した。

店へキャンセルの電話をすると、明るい声で「承知しました」と言われた。用件は二十秒で終わった。誰も困っていない。なのに、今日のために買ったストッキングや、朝から崩さないように気をつけた前髪が、全部余ったものに見えた。

帰りにスーパーへ寄り、半額になった海老グラタンと小さなティラミスを買った。レシートの時刻は十九時二分。店へ向かうはずだった時間だった。

部屋でグラタンを温めているあいだ、アプリを開く。相手から追加で〈本当にすみません〉と来ている。恵麻は最初の文章から「大丈夫です!」を消した。

〈残念ですが、了解しました。今日はゆっくり休みます。また都合の合う日があれば〉

送ると、少し冷たいだろうかと思った。すぐに笑顔の絵文字を足したくなったが、電子レンジが鳴ったので画面を閉じた。

グラタンの端は熱く、中央はまだぬるかった。ティラミスは食後まで待てず、途中で蓋を開けた。

空いた時間を、別の誰かとのやり取りで埋めることもできた。けれど恵麻は通知を切り、片方だけつけた跡のある耳を指でなぞった。楽しみにしていた自分を、なかったことにしなくていい。今夜は残念なまま、甘いものを食べて終わってよかった。