空席だった後部座席

 真夏の駐車場で、遼子のスマートフォンが鳴った。上司からだった。

「五分だけだから」

 後部座席で眠る三歳の湊へ、前の人生の遼子はそう言った。

 スーパーのサービスカウンターで電話を受け、修正箇所を聞き、ついでに牛乳を買った。五分は二十七分になった。車へ戻った時、窓の向こうで息子はもう動かなかった。

 仕事を辞めても、夫と別れても、自分を許せないまま十二年が過ぎた。毎夏、駐車場を通るたび、空の後部座席を確認せずにはいられなかった。最後に息子の写真を抱いて眠った夜、遼子はただ五分前へ戻りたいと願った。

 そして目を開けると、車内には幼い寝息と、同じ着信音があった。

「五分だけだから」

 口からこぼれた過去の台詞に、遼子は自分で首を振る。

「違う。五分でも、置いていかない」

 電話を切り、チャイルドシートの留め具を外した。湊は汗ばんだ頬を母の肩へ押しつけ、「ねむい」とむずがる。重い。歩きにくい。だからこそ遼子は、二度と手放さないよう両腕へ力を込めた。

 店内へ入った直後、スマートフォンに高温警告が表示された。車載センサーが送ってきた後部座席の温度は、わずか七分で四十八度。遼子は数字を見て膝が震えた。前の人生では、その熱の中へ世界で一番大切な命を残したのだ。

 サービスカウンターの椅子に湊を座らせ、冷たい水を飲ませる。店員が子ども用の保冷剤を渡してくれた。湊はそれを頬に当て、青い袋を魚のように泳がせる。

 上司から再び電話が来た。

『なぜ切った。今すぐ対応できるだろう』

「できません。息子と一緒です」

 前なら謝った。今度は、はっきり答えて通話を終えた。

 買い物を終えて車へ戻ると、後部座席は焼けたように熱かった。遼子は湊を抱いたままドアを開け、十分間風を通す。空席であることが、こんなに救いになるとは知らなかった。

 午後二時三十一分。

 かつて救急隊員が死亡時刻を確認した分を、時計の針が越える。遼子は湊の胸へ手を当てた。小さな鼓動が、掌を規則正しく押し返す。

「ママ、アイス」

「うん。溶けないうちに一緒に食べよう」

 あの日には続きのなかった会話が、冷凍ケースの白い冷気の中で始まった。