空欄の扶養人数
住宅ローンの契約室で、鴨志田美郷は署名直前の書類を閉じた。
向かいには、保育園帰りの子どもを連れた夫婦が座っている。翌日から産休に入る桐生里佳が、最後に引き継いだ案件だった。審査は通過し、金利も団体信用生命保険の保険料も確定している。
「ここまで来たら、あとは押印だけ」
里佳が言う横で、美郷は申込書の〈扶養人数〉が空欄なのに気づいた。画面には一人と表示されている。夫婦へ確認すると、扶養する子どもは二人。今日は下の子だけを連れてきたという。
上司は「審査額に影響しないから、後で直せばいい」と小声で促した。だが美郷は、保険料計算の詳細を開いた。扶養人数の列が一つずれ、隣にある配偶者の年齢が子どもの人数として読み込まれている。保険料は本来より低く、将来訂正されれば説明のない追加請求になる。
美郷は契約を一度保留にし、夫婦へ理由を伝えた。子どもが眠くて泣き始めると、受付の新人に「書類を急がせなくていい。キッズスペースを先に開けて」と頼んだ。入力元の表を確認すると、産休中の担当者名を追加した日に列が増え、取り込み設定だけが古いままだった。
夫婦は、上の子の入学までに引っ越したいと話していた。美郷は数字を直す間、契約を失う怖さより、数年後に「聞いていない」と言わせる方が怖いと思った。訂正前後の金額を一枚に並べ、どの欄が変わったのかを夫婦の前で一つずつ確認した。
修正後も融資額は変わらず、保険料は月に数百円上がった。夫婦は「今日分かってよかった」と署名した。
里佳は空になった契約室で、四十件分の顧客一覧を美郷へ渡した。
「このくらい、私も最初は一人で持ったから」
一覧には、美郷がすでに担当する二十七件が含まれていない。上司は「戻ってくるまでの数か月だけ」と言った。
美郷は新しい取り込み設定を保存し、引き継ぎ表を三色に分けた。自分が受ける案件、チームへ再配分する案件、管理職が判断する案件。
〈全件受領〉のチェックを外し、再配分案を添えて承認依頼を送った。