端から始める
牧瀬理世は、何かを始める前に形を整えた。
語学学校への申込書を書くなら、先に机を片づけ、参考書を選び、一週間の予定表を作る。転職用の志望動機なら、最初の一文が決まるまで本文へ進まない。準備だけはいつも完璧で、実際に出した申込書はほとんどなかった。語学学校の案内ページも三か月前から開いたままで、比較表だけが二十項目に増えていた。
春の昼休み、公園のベンチで願書の下書きを開いていると、隣で女の子がサンドイッチの箱を落とした。花音、六歳。父親が遊具のそばで弟を追いかけている間に、卵サンドが箱の角へ寄り、きれいな三角が潰れてしまった。
花音はしばらく眺めたあと、端から大きくかじった。
「真ん中から食べないの?」と理世が訊く。
「真ん中、どこか分かんなくなった」
花音は潰れた断面を見せ、理世の願書を覗き込んだ。
「おねえさんの紙、何もないね」
「最初の一文を考えてるの」
「最初って、上?」
「普通はね」
花音は卵のついた指で、紙の真ん中あたりを指した。
「ここから書いたら、あとで上が最初になるよ」
理世は笑った。そんな書き方では文章が崩れる、と言いかけたが、花音はもうサンドイッチの端を食べ進めている。三角ではなくなっても、昼食はなくならない。
「一個だけ書いて」と花音が言った。「上じゃないところ」
理世は願書の中央にある「受講後にしたいこと」の欄を見た。そこなら答えを知っていた。海外の取引先と、通訳を挟まずに話したい。ずっと前から同じだった。
その一文を書くと、空白の紙が急に申込書らしく見えた。花音の父親が戻り、彼女は潰れた箱を得意げに掲げて去っていった。
花音が残したパン屑のそばで、理世はもう一つ欄を埋めた。『現在困っていること』には、勉強時間ではなく、始める前に計画を作りすぎること、と書いた。書いた瞬間に解決はしなかったが、空欄よりは自分の形をしていた。
午後、理世は机を片づけなかった。新しい手帳も買わなかった。願書の一番上へ戻らず、書ける欄から埋めていく。
最後まで空いていた志望動機の最初の行に、理世は途中で見つけた言葉を書き始めた。