紙コップの乾杯
送別会の乾杯まで十分。河西渉は給湯室で、炭酸水を紙コップへ注いでいた。新潟支社への転勤を祝う会なのに、酒を飲む気になれない。
岩倉香織が入ってきて、戸棚から同じ紙コップを取った。二人は残業のたび、取り違えないよう底に印を描いた。渉は丸、香織は小さな星。付き合い始めても、その印だけは変えなかった。繁忙期の午前二時、星のコップにだけ甘いココアを入れるのが渉の役目だった。香織は礼を言わず、翌朝、丸のコップを洗って机へ戻した。
「会議室、みんな待ってる」
「君も乾杯するのか」
「主役がいないと始まらないでしょ」
渉の転勤が決まった夜、香織は「ついていけない」と言った。理由を聞くと、「今は話せない」。それから一週間、二人は会社でしか会っていない。
「星、描かないんだな」
香織のコップの底は白いままだった。
「もう間違えないから」
「そうだな」
渉は部屋の合鍵をポケットから出した。送別会のあと返してほしいと伝えてあったが、今済ませたほうが楽だった。
香織は鍵を受け取らず、炭酸水を一口飲んだ。
「新潟で、誰かと暮らすの?」
「単身用の部屋だよ」
「じゃあ、その鍵はまだ持ってて」
「東京へ戻る予定はない」
「私が行く予定だった」
渉は笑いかけて、やめた。
香織は鞄から新潟市内のホテルの領収書を出した。先週の日付だった。現地企業の最終面接を受け、今日の午後まで結果を待っていたという。
「不採用だった。だから、ついていけないって先に言った。期待させたくなくて」
「それなら相談してくれれば」
「転勤を断る顔をしたから、言えなかった」
会議室から「あと一分!」と声が飛ぶ。
二人が戻ると、一斉に紙コップが上がった。渉の丸印の隣で、香織の無地のコップも揺れた。
乾杯のあと、幹事が寄せ書きを渡した。一番下、香織の欄には星だけが描かれている。同時に渉の携帯へ、人事から〈岩倉香織さんの在宅勤務特例を十八時に承認〉と通知が届いた。会の開始で確認が遅れたらしい。
渉が顔を上げたとき、香織はもう非常階段へ消えていた。彼は掌の合鍵を紙コップへ落とさず、星の寄せ書きと一緒に胸ポケットへしまった。