耳栓を外す夜
鵜飼早苗巡査の撤回供述には、聞こえないはずの音が入っていた。
柊木景子技官は、監察室の音響卓で録音を再生した。早苗は上司からの性的な要求と、拒否後の報復人事を訴えたが、翌日には「誤解だった」と申告を取り下げた。公式記録では、撤回聴取は防音の第三聴取室で行われている。
「雑音しかないだろう」
原井田俊幸監察管理官が背後で言った。早苗の上司は県警幹部候補で、来週には警察庁へ出向する。今夜中に撤回を有効とする鑑定書が必要だった。
景子は右耳の耳栓を外した。突発性の聴覚過敏を抑えるため、勤務中はいつも着けている。再生速度を半分に落とすと、高い電子音が三秒ごとに鳴った。
「第三聴取室にはない音です」
「何の音だ」
「機密文書プリンターの待機信号」
その機種は、本部長と監察管理官の執務室にしか置かれていない。続いて、低い振動が二回。原井田の部屋の窓だけに取り付けられた電動ブラインドの作動音だった。
撤回は正式な聴取室ではなく、原井田の執務室で録られている。録音の開始前、早苗は六時間も呼び出され、申告を取り下げなければ父親の交通違反を事件化すると告げられた、と後輩へ漏らしていた。翌朝、早苗は離島の駐在所へ異動を命じられ、申告時に預けた携帯電話も『紛失』した。声だけが、まだここに残っていた。机を擦る音の直後には、早苗が息を呑み、誰かが鍵を掛ける金属音も入っている。
「場所が違っても、本人の声だ」
原井田は平然と言った。
「彼女は撤回した。組織は申告者と相手方、両方を守る必要がある」
「録音の二分十二秒。机を叩く音のあと、誰かが『家族まで警察を敵に回すのか』と言っています」
「空耳だ。君は耳が悪い」
その言葉で、景子は再生を止めた。
机の引き出しから、未使用の小型録音機を出す。原井田の前へ置き、赤いボタンを押した。
「今の発言から、改めて聴取します」
「私を調べる気か」
「場所も時刻も、今度は消させません」
景子は左耳の耳栓も外し、録音開始時刻を読み上げた。