胸元の空席
向坂巡査の制服には、四角い跡だけが残っていた。
綾部透子監察官は、取調室の白い机に制服写真を置いた。保護房で泥酔者が肋骨を折られた夜、向坂のボディーカメラは床へ落ち、誰かに踏まれて壊れたと報告されている。本体も映像も見つかっていない。
「面ファスナーが剥がれたんです」
向坂は胸元を指した。
「揉み合いでした」
「剥がれたなら、柔らかい側の繊維が起きます」
透子は拡大写真を示した。
「全部、同じ向きに寝ている。カメラは勤務前から付いていなかった」
向坂の視線が監視窓へ動いた。向こうには鬼塚副署長がいる。
「装着確認は朝礼で受けました」
「確認者は鬼塚副署長ですね」
「はい」
「保護房へ入る直前、あなたは装着記録端末に触れていない。なのにシステム上は、午後十一時四分から録画中になっている」
「予備機です」
「予備機の番号を言ってください」
沈黙が落ちた。
透子は答えを急がなかった。向坂は若い。殴ったのも彼ではない。保護房で泥酔者を壁へ押しつけたのは鬼塚だという別の職員の証言がある。向坂はカメラを外すよう命じられ、後から「落下紛失」の報告書へ署名した。それを認めれば、命令違反より重い虚偽報告で処分される。
鬼塚が内線を鳴らした。透子は出なかった。
「落としたことにすれば、誰も辞めずに済むと言われたんです」
向坂がようやく言った。
「誰に」
「それを言ったら、俺だけじゃない。同期も、指導係も終わります」
「言わなければ、骨を折られた人だけが嘘つきになります」
向坂は両手を握り、ほどいた。
「副署長です。保護房へ入る前に、胸から外せと」
監視窓の向こうで椅子が倒れた。
透子は供述調書に「カメラ脱落」と入力してあった一文を削除した。代わりに「上級者の指示により、入室前に意図的に未装着」と記す。向坂の処分を軽くできる保証はない。透子自身も、明日からこの署で席を失うだろう。
それでも彼女は調書を印刷し、署名欄を向坂へ向けた。
空席だった胸元に、初めて記録が戻った。