花で消した社名

辻堂壱花は喫茶「金平糖」で、代理店から届いた最終契約書を読んでいた。

これまで壱花は、名前が載らない案件も実績になると信じて受けた。だが実績一覧には公開できない仕事ばかりが増え、初対面の相手には、何も描いてこなかった人のように一から説明し直していた。

壱花が描いた挿絵は、来月から駅に掲出される。だが制作者欄には代理店の名しか載らない。担当者は「次につながるから」と言い、壱花自身の名を出す条件だけ、契約書から外した。

仕事が減るのは怖かった。二十六歳で独立して一年、断れるほど依頼は多くない。署名欄へ指を置いたまま、壱花は冷めかけたコーヒーを見た。

白いカップの側面には、淡い黄色の花が一輪描かれていた。よく見ると、花びらの下から紺色の角ばった文字が透けている。昔の運送会社の社名らしい。塗りつぶすのではなく、その上へ花を重ねたため、古い文字も新しい絵も両方残っていた。

店主はカップを下げる前、花の部分を親指でこすった。絵が剥げないか確かめるように一度、二度。それから裏返し、底に小さく残った絵付師の署名を見て、棚へ戻した。

壱花はその三文字を目で追った。会社名よりずっと小さい。それでも、消されずに残っている。

会計で店主が「宛名は」と尋ねた。

壱花はいつものように「上様」と言いかけた。経費処理が楽だから、それで済ませてきた。

「辻堂壱花でお願いします」

店主は漢字を確認し、領収書の中央へ大きめに書いた。店印は名前へかからない位置に押された。

壱花はカウンター脇で契約書を開き、署名する代わりに担当者へメールを作った。

〈制作者として私の氏名を掲載することを、契約条件に追加してください。難しい場合は今回はお引き受けできません〉

送信前に「恐縮ですが」を足しかけ、やめた。

黄色い花のカップが、棚でほかの器に挟まれていた。紺色の社名も、その下の署名も見えない。それでも壱花は、自分の名前がある場所を知っていた。

送信ボタンを押し、領収書を折らずに鞄へ入れた。