花嫁印に夫の名を書かない

和平の証として、聖女ヘスティアは敵国の王子へ嫁がされることになった。

婚礼衣装の下、胸元には黒い花嫁印がある。式で夫となる者が自分の名を刻めば、彼女の祝福も感情も命も、その男へ従う。

王子アシュベルは祭壇の前で刻印針を渡された。

「名をお書きください」と老宰相が促す。「これで聖女は殿下だけを愛し、決して裏切りません」

参列者がうなずく。ヘスティアだけは微動だにしなかった。泣くことすら、婚礼前に禁じられている。

アシュベルは針先を花嫁印へ近づけた。

そして、自分の名ではなく、花を囲む円を一周なぞった。

黒い印から火花が散る。

「何をなさる!」と宰相が叫んだ。

「境界を閉じた。外から名を入れられないように」

続けて王子は、結婚契約の一枚目を縦に裂いた。紙に結ばれていた魔力が逆流し、黒い花びらがヘスティアの肌から一枚ずつ剥がれる。最後の一片は祭壇へ落ち、墨の染みになった。

「和平が壊れますぞ!」

「人一人を鎖にした和平なら、先に壊れている」

アシュベルは王冠を外し、祭壇へ置いた。

「婚礼は中止だ。西門に馬と旅費を用意してある。故国へ帰るか、別の土地へ行くか、自分で決めてくれ」

ヘスティアは初めて顔を上げた。

「殿下は、私の力が欲しくないのですか」

「欲しい。北の疫病も、干ばつも深刻だ」

「ならば、なぜ」

「欲しいことと、奪ってよいことは別だ」

彼女は婚礼の白手袋を外し、黒い染みの消えた胸元へ触れた。そのまま何も言わず、礼拝堂を出ていった。

翌朝、アシュベルは王位継承権を停止された。和平を台無しにした責任として、北部の疫病地へ追放同然に送られる。

城門で一人、粗末な馬へ荷を積んでいると、白い外套の旅人が近づいた。

ヘスティアだった。婚礼衣装ではなく、自分で選んだ丈夫な長靴を履いている。

「西門は反対側ですよ」

「一度、そこまで行きました」

「では、なぜ戻った」

「帰る国は私を契約に載せました。あなたは私を契約から降ろした」

彼女はアシュベルの馬へ薬箱を結びつける。

「妻として従う義務はありません」

「もちろん」

「聖女として国に従う義務も」

「ない」

「では、ヘスティアとして、北へ同行します。あなたが私の意思を忘れない限り、私はあなたを見捨てません」

アシュベルは王冠の代わりに、予備の手綱を差し出した。

ヘスティアはそれを受け取った。引かれるためではなく、自分の馬を導くために。二人は並んで北へ向かった。