茶碗蒸しのふた
波多野肇は、転勤の内示書を鞄の底へ押し込んでいた。
大阪支社へ二年間。上司は「若いうちの経験になる」と言い、返事は月曜まででいいと笑った。悪い話ではない。昇進にも近づく。支社の立て直しに参加できれば、今の単調な集計業務から抜け出せる。肇自身、少し心が動いていた。だが、同棲して三年になる恋人は、先週から近所の不動産サイトで広い部屋を探している。今朝も食卓に、二人用の書斎がある間取りを印刷して置いていた。肇は急いでいるふりをして、その紙を裏返した。
肇は今日も何も言えなかった。帰宅すれば、候補の間取りを見せられる。それが怖くて、一駅手前で降りた。
商店街の端の居酒屋には、肇以外の客はいなかった。店主が「温かいもの?」と聞き、肇は茶碗蒸しを頼んだ。
やがて、小さな器が木の受け皿に載ってきた。蓋をずらすと、白い湯気がまとまって顔へ上がり、三つ葉と鰹出汁の匂いがほどけた。匙を入れると、表面がかすかに揺れ、器の底で銀杏がこつんと鳴った。
一口目は熱すぎて、味より先に舌が驚いた。肇は蓋を戻した。
「閉めると、冷めませんよ」
店主が言った。
「分かってるんですけどね」
「じゃあ、少し開けときますか」
店主は蓋を器の端へ斜めに掛けた。それ以上は何も聞かなかった。
肇は鞄から内示書を出した。紙の角は、何度も触ったせいで少し丸くなっている。断れば二人の生活は続く。受ければ離れる。どちらを選んでも、何かを失うように思えた。
けれど、今夜黙って帰ることだけは、選択ではない。
明日の朝、間取りの話を始める前に内示書を見せよう。自分は行きたいのか、怖いだけなのか。恋人は待てるのか、ついて来る気があるのか。結論を急がず、二人で月曜まで迷う。自分だけが相手の将来を守れるような顔をして、何も知らせないのはもうやめる。
話した結果、別々の答えになるかもしれない。転勤を断っても、胸にしこりが残るかもしれない。
蓋の隙間から逃がした湯気が薄くなるころ、茶碗蒸しはようやく舌に優しい温度になっていた。出汁の甘さは静かで、飲み込んでも胸の奥にしばらく残った。