蓋をしただけで消えた黒雲

港町の肉市場には、昼になると蠅の黒雲が浮かんだ。

「腐りかけでも香辛料を振れば売れる」

市場頭ガルドは笑い、衛生検査員だった莉子を値札書きに回した。だが暑季に入ってから、買った肉で腹を壊した者は一週間で六十三人。客足は半分になり、今朝は王宮への納入まで止められていた。

莉子が使った現代知識は一つ。生ごみを、蓋の閉まる容器へ隔離することだった。

市場では切れ端も内臓も、足元の木箱へ投げていた。莉子は樽を十二個集め、蝶番付きの蓋をつける。肉台の横には一樽ずつ。いっぱいになれば裏口の集積所へ運び、空の樽と交換する。難しい決まりはない。捨てたら、必ず蓋を閉じる。

最初は売り子が面倒がった。だが切れ端を足元へ落とさなくなると、床のぬめりも消えた。朝の掃除は二時間から四十分に縮まり、滑って包丁を落とす者もいない。蓋を閉める一動作が、通路まで変えた。

「樽に金を払って、臭いを閉じ込めるだけか」

ガルドは鼻で笑った。

正午の鐘が鳴った。いつもなら千を超す蠅が、肉台にも客の顔にも群がる時間だ。莉子は白い布を一枚吊り、止まった蠅に炭で点を打たせた。

昨日の布は二百八十七点。今日の布は、十一点。

肉台の上で羽音が消えた。甘ったるい腐臭も、樽の蓋の内側に留まっている。売り子が手を振り回さずに肉を切り、客は品を見て選べた。午後だけで売上札は昨日の三倍になった。

三日後、診療所から市場由来の腹痛は六十三人から五人へ減ったと報告が届く。王宮の検査官は、肉より先に樽の蓋を開け、閉めた。

「この仕組みを守れるなら、納入を再開する」

市場中が沸いた。ガルドだけが、値札書きの机に置かれた王宮注文書を見つめていた。銀貨千二百枚分。失えば市場頭の首が飛ぶ額だ。

莉子は注文書へ触れず、開け放された一つの樽を指さした。ガルドは自分で走り、蓋を閉めた。

それから市場頭の印章を、莉子の前へ差し出す。

「今日から衛生管理はお前が決めろ。逆らう店は、私の店でも閉めていい」

黒雲の消えた通路へ、半年ぶりに王宮の荷車が入ってきた。