蜜蜂は甘い嘘へ戻る
盛夏の香宴で、聖女カレンティアの悲鳴とともに銀蜜蜂の群れが舞い上がった。
蜂は彼女の周囲だけを渦巻き、白い腕へ次々と針を向ける。護衛が聖布で追い払うと、床にはナディーヌが贈った香水瓶が転がっていた。
「この香りで蜂を呼んだのです」
カレンティアの訴えに、侯爵令息ローレンスは瓶を踏み砕いた。
「聖女を襲わせるとは卑劣な。ボルジェ家との婚約を破棄する」
ナディーヌは砕けた香水より、何年も育てた信頼のほうが簡単に踏まれたことに胸を痛めた。香りを調えるたび感想を求めてきたローレンスは、今夜だけは栓を開けて確かめることさえしなかった。けれど、泣く代わりに一匹の蜂が残した銀粉を見た。
「養蜂伯に、群れの記憶を読んでいただけますか」
蜂柄の燕尾服を着たエーヴァルトが、嬉しそうに前へ出た。社交界では変人で通っているが、王国中の養蜂場を救った専門家である。
彼は《巣記憶琥珀》を一つ掲げた。女王蜂の誘引香を嗅いだ群れは、最初に香りが生じた場所を琥珀へ映す。
琥珀の中に金色の線が灯る。それは床の香水瓶には向かわず、カレンティアの左手へ集まった。彼女が握りしめた白手袋の内側から、女王蜂の誘引香が噴き出している光景まで鮮明に再生された。
「蜂は肩書きを知りません。いちばん甘い嘘へ戻るだけです」
エーヴァルトは琥珀をしまった。
カレンティアが手袋を隠し、ローレンスは咳払いする。銀蜜蜂は天井近くへ散り、広間には砕けた瓶の甘い香りだけが残った。
「聖女は誰かに利用されたのだろう。ナディーヌ、婚約破棄は撤回する。蜂程度で我々の絆が壊れるはずがない」
「殿下が壊したのは、瓶だけではございません」
ナディーヌは足元の硝子片を避けた。
「それに、蜂程度とおっしゃる方の領地へ、養蜂業を任せることはできませんわ」
エーヴァルトが目を輝かせ、革手袋を外して手を差し出した。
「西丘の千箱を一緒に立て直しませんか。蜜の配合も、人生の配合も、決めるのはあなたです」
ナディーヌはローレンスへ背を向け、銀蜜蜂が一匹とまったエーヴァルトの手を取った。