行き先のない終電
宇佐見鹿乃が終電に乗ると、行き先表示が消えていた。
車内には誰もいない。
発車のベルが鳴り、扉が閉まったあと、向かいの席に弟の樹生が座っていることに気づいた。
「久しぶり」
「三年ぶり」
「姉ちゃん、顔色悪い」
「幽霊に言われたくない」
樹生は三年前、山道で事故に遭った。
鹿乃が運転していた。
事故のあと、鹿乃は仕事を辞め、婚約を解消し、実家を離れた。何をしても自分だけが続いていくことが、弟を置き去りにするように思えた。
今は短期の仕事を転々とし、家具の少ない部屋で暮らしている。
列車は見慣れた駅を通過した。
窓の外の駅名標は、どれも白く塗りつぶされている。
「どこへ行くの、これ」
「姉ちゃんが決めるまで」
「決めたら?」
「俺は降りる」
鹿乃は黙った。
樹生は昔から方向音痴だった。修学旅行では集合場所を間違え、大学の入学式には別のキャンパスへ行った。
事故の日も、樹生が地図を読み違えた。
けれどハンドルを握っていたのは鹿乃だった。
「私が、あの道を選ばなければ」
「俺が右って言った」
「断れた」
「雨が降るのも断れた?」
「ふざけないで」
「姉ちゃんが三年ふざけてるから」
樹生は窓に額をつけた。
ガラスには鹿乃の顔だけが映っている。
「母さん、毎月電話してる」
「出ると、普通に話すから」
「普通じゃだめ?」
「責めてくれたほうが楽」
「父さんも、姉ちゃんの部屋そのままにしてる」
「帰れない」
「じゃあ、どこへ行くの」
列車は暗い川を渡った。
行き先のない車内で、鹿乃は初めて、自分がどこにも向かわないことを選び続けていたと気づいた。
「実家」
声にすると、胸が痛んだ。
「明日の朝、帰る」
天井の表示に、故郷の駅名が灯った。
樹生は立ち上がった。
「じゃ、次で」
「待って。まだ話が」
「姉ちゃん、行き先決めたじゃん」
「樹生」
弟は扉の前で振り返った。
「俺、事故の日、楽しかったよ」
「そんなこと言わないで」
「姉ちゃんの車、音痴な歌、まずい道の駅の蕎麦。最後だけで一日を決めないで」
列車が停まった。
ホームには何もなく、夜だけが広がっていた。
樹生が降りる。
扉が閉まる直前、鹿乃は窓を叩いた。
弟は口を動かした。
おかえり。
声は聞こえなかった。
翌朝、鹿乃は故郷行きの切符を買った。
今度の行き先表示は、最初からはっきり読めた。
それでも乗り込むまで足が震えた。
列車が動くと、窓の外に昨夜の弟はいなかった。
鹿乃は一人で、決めた場所へ運ばれていった。