記憶家賃
片桐勇弦は毎朝、玄関の鍵を回してから《ルームログ》を同期する。借りた部屋で生まれた記憶は家賃に含まれ、契約中だけ思い出せる。退去した部屋の出来事を持ち出せない。それが賃貸住宅の規則だった。
防犯とプライバシーのためだと、不動産会社は説明した。前の住人の痕跡を次の住人へ残さず、住民も室内で見聞きした秘密を外へ漏らせない。勇弦も契約時には、壁紙の色を選ぶ程度の軽さで同意した。
この部屋には、婚約者の紗英がいた。
朝、カーテンを開けると「逆光になる」と笑った声が戻る。流し台には、焦がした卵焼きの匂い。窓際の床には、指輪を渡した夜の膝の痛みまで残っている。紗英は二年前、駅の事故で死んだ。勇弦が彼女を思い出せる場所は、もうこの一室だけだった。
だから家賃が上がっても払い続けた。転職で通勤が二時間になっても、引っ越さなかった。友人には写真をクラウドへ移せと言われたが、写真の紗英はいつも黙っている。この部屋だけが、彼女の声で自分の名を呼んだ。
その朝、決済端末が赤く光った。
〈家賃の支払いを確認できません〉
〈本日午前十時に居住契約を終了します〉
口座には十分な残高があった。管理会社へ電話すると、建物の再開発が決まり、更新そのものが停止されたという。
「払います。半年分でも、一年分でも」
『金額の問題ではありません。契約が存在しない住所に、記憶を紐づけることはできません』
勇弦は会社を休み、十時まで部屋にいた。壁へ手を当て、紗英の声を一つずつ再生する。だが多すぎて選べない。初めて泊まった夜。けんかして無言で食べたカレー。事故当日の「行ってきます」。
九時五十九分、最後の通知が出た。
〈退去後も家具・写真は持ち出せます〉
〈室内記憶は物品に付随しません〉
勇弦は紗英のマグカップを抱いた。
十時。
白い陶器を、知らない女の名前が書かれた不用品だと思った。部屋の中央に立っている理由も分からない。頬だけが濡れていた。
退去確認の担当者がドアを開け、「お一人暮らしですね」と尋ねた。
勇弦は室内を見回した。
「はい。ずっと、一人でした」