赤い傘は母を見ない

篠杜茉莉は、娘が消えてから初めて赤い傘を見た。

人気歌い手だった娘は、半年前のライブを最後に連絡を絶った。事務所も警察も居場所を知らないという。茉莉は毎日、娘のアカウントへ「心配している」「帰ってきなさい」と送り続けた。

その夜、知らないボカロ曲のMVが自動再生された。雨の交差点を、顔の見えない人々が歩いている。中央に赤い傘の女が立ち、カメラへ背を向けていた。イントロの四拍目、女が傘を少し傾ける。見えた横顔は娘だった。

バス停の曇ったガラスへ、指で文字を書く。

「雨がやむまで」

茉莉は胸を押さえた。炎上した交際報道が収まるまで隠れているのだと思った。娘の衣装、食事、友人、投稿時刻まで管理したのは、傷つけられないためだった。交際相手と別れさせたのも、悪い男から守るためだった。

Aメロで赤い傘は、信号の点滅に合わせて左右へ揺れた。茉莉が動きを数字へ置き換えると、駅のロッカー番号になった。彼女はスマートフォンを握り、家を飛び出そうとする。

画面の娘が初めて正面を向いた。

「雨がやむまで」

サビと同時に、ロッカーの映像が映る。中にあるのは合鍵、監視用の小型端末、娘名義の通帳。どれも茉莉が預かり、返さなかったものだ。さらに、母から届いた一日百件のメッセージと、玄関前で撮られた映像が音の波形に重なる。低いキックは、娘が相談窓口へ駆け込んだ夜の心拍だった。

茉莉は「家族なのに」と画面へ叫んだ。

最後の一音で雨が止む。だが娘は傘を閉じない。代わりに、画面の外から差し出された書類をカメラへ見せた。接近禁止命令の申立書。その日付は、MV公開の翌朝だった。

ガラスに最後の文字が書かれる。

「雨がやむまで」

世間の騒ぎが収まるまで待ってほしい、という帰宅の約束ではない。娘にとって降り続いていた雨は、母の連絡と監視だった。それが止むまで、姿を見せないという宣告だった。

玄関を開ける前に呼び鈴が鳴った。茉莉がモニターを見ると、警察官が立っている。赤い傘は、最後まで母の方を見なかった。