赤鉛筆の丸
水守緒花は、光彩堂のカウンターへ一枚のコンタクトシートを置いた。小さな顔写真が三十六こ並び、そのほとんどに赤鉛筆の×がついている。
三年前、俳優の宣材写真を撮ったときのものだった。所属していた事務所の担当者は、顎、鼻、目尻、笑い方を順に批評し、使えないカットへ×を重ねた。残った一枚でさえ、大きく修整され、緒花自身には見えなくなった。
事務所を辞めてから舞台にも立っていない。今朝、知人から小さな劇団のオーディション情報が届いた。応募欄を開いたまま、宣材写真を選べずにいた。新しく撮るほどの覚悟もなく、捨てられなかったコンタクトシートを持ってきたのだ。
店主は卓上ルーペを目に当て、三十六枚を端から見た。×の数には反応しない。やがて十五番の下へ細い紙片を差し込んだ。
そこには、照明が点かなかった瞬間の緒花がいた。カメラから顔をそらし、スタッフの何かに吹き出している。口は開き、頬も左右で違う。赤い×は、顔を横切るほど強く引かれていた。
店主は焼き増し注文票の番号欄に〈15〉と書いた。緒花を見て、鉛筆を止める。決定はまだしていない、という止め方だった。
「それ、×ですよ」
店主はうなずき、赤鉛筆を一本取り出した。緒花は身構えたが、店主はコンタクトシートには触れず、注文票の〈修整なし〉へ小さな丸をつけた。十五番の×と、注文票の丸が、ガラス越しに重なった。
緒花は笑いそうになった。誰かの不合格印を消す必要はないのかもしれない。その上から、自分の選択を置けばいい。
「十五番を、一枚お願いします」
店主は他の番号を尋ねなかった。会計では一枚分だけを打ち、コンタクトシートを黒い紙で包む。赤い印が透けない紙だったが、端は糊づけせず、いつでも開けられるよう折るだけにした。
写真が仕上がるまで、緒花は劇団の応募フォームを開いた。経歴欄で、事務所名を消そうとして手を止める。いたことまで消す必要はない。退所年月だけを正確に書き、十五番の写真を添付した。
送信ボタンを押すと、画面に小さな丸が回った。
赤鉛筆の×は、そのまま鞄の中にある。けれど応募した顔は、×の向こうで笑っていた。