辞書の中の水平線

八十島玲央は、英和辞典を借りたまま三か月返さなかった。

持ち主は窓側の列にいる弓佳だった。四月の小テスト前、玲央が辞書を忘れた日に「家に同じのがもう一冊あるから」と貸してくれた。

表紙には名前もなく、頁の端が丸まっていた。

玲央は辞書を勉強にはほとんど使わなかった。

授業中、先生の話が長くなると、弓佳が余白へ描いた細い線を探した。Aの頁には波、Cには灯台、Sには船。頁をぱらぱらめくると、海岸線が少しずつ続いている。

辞書の下側へ親指を当て、素早く送ると、鉛筆の海が動いた。

ある放課後、弓佳が玲央の机へ来た。

「そろそろ返して」

「家にもう一冊あるんじゃないの」

「嘘。ずっと電子辞書でしのいでる」

「何で三か月も言わなかったんだよ」

「返すって言うかと思って」

玲央は慌てて鞄から出した。

そのとき、辞書が床へ落ちた。

開いた頁はHだった。

余白の海岸線が、そこで途切れている。英単語の欄には〈horizon〉。水平線。

「続き、描かないの?」

玲央が訊くと、弓佳は辞書を拾い、膝の上で閉じた。

「もう描く場所ないから」

「Zまである」

「行き先が決まったら描くつもりだった」

弓佳は海のない町から、海洋学を学べる大学へ行きたいという。初めて聞いた。

玲央は進路希望調査を白紙で出していた。町を出たい気も、残りたい気も、どちらも言葉にならなかった。

弓佳は辞書を開き直し、鉛筆を差し出した。

「三か月分の延滞料」

「何を描くの」

「水平線の先」

玲央はHの余白へ、海の向こうへ伸びる一本の橋を描いた。橋は頁の端で切れた。

「雑」

「どこへ着くか決めてないから」

「じゃあ次の頁まで続けて」

二人でIの頁を開いた。

indecision――迷い。

その単語の下を通るように、橋を延ばした。

辞書はその日のうちに返した。けれど放課後になると、弓佳が窓側の席へ辞書を広げ、玲央に鉛筆を渡した。

卒業までに橋はZへ届かなかった。

それでも玲央が進路希望に初めて町の外の学校を書いた日、弓佳はHの頁へ、小さな太陽を一つ足した。