返ってきたランドセル
ランドセルが返ってきた朝、娘はまだ戻らなかった。
私は居間のテーブルに黒い鞄を置き、向かいの刑事へ昨夜の出来事を話した。玄関の前にランドセルだけが置かれ、娘の姿はなく、郵便受けには身代金を要求する紙が入っていた。
「帰宅は午後四時ごろの予定でした」
壁の時計は三時四十分で止まっている。電池を抜いたのは、秒針の音が考えを邪魔するからだ。刑事は黙ったまま、私の声を聞いていた。
「犯人から電話は?」
「まだです。たぶん声を変えてくるでしょう」
身代金の紙は、新聞の文字を切り貼りしたように見せてある。だが糊が乾ききらず、端が指に貼りついた。刑事ならそこを調べるはずだ。次に作るときは、昨夜のうちに乾かしておこう。
私は用意していた答えを続けた。昨日の服装、通学路、最近見かけた不審な車。途中で何度か言い直し、最も自然に聞こえる表現を選ぶ。刑事は一度もメモを取らない。
ランドセルの横ポケットから、来月の給食献立表がのぞいていた。私は慌てて押し込んだ。学校で早めに配られたのだ、と説明できる。中に入れた上履きが新品なのも、週末に買い替えたことにすればいい。
「要求額は三百万円。受け渡しは河川敷」
河川敷には昨夜、目印の黄色いテープを結んである。刑事に場所を訊かれても迷わず案内できるよう、往復時間も測った。
私は紙を読み上げ、悲しげに息を詰まらせた。もう少し声を震わせたほうがよい。最初からやり直そう。
テーブルの下で停止ボタンを押す。向かいの椅子には誰も座っていなかった。刑事に見立てて掛けた背広が、エアコンの風で揺れている。
録音機の表示は、午後三時四十二分。
娘の下校時刻まで、まだ十八分あった。
玄関で鍵が回り、「ただいま」と明るい声がした。私は用意したランドセルを物置へ隠し、角の擦れた本物のランドセルを背負った娘を迎える。
今夜、眠らせて河川敷へ運ぶ。明朝には、練習した通り警察へ話す。
返ってきたランドセルではない。
娘が帰る前に、被害者の父親になるため用意したランドセルだった。