遺言は白紙で
鷺沢芙美は、母の遺言書を読んで笑った。
〈私が死んだら、芙美と周は「台所の夜」を消してください〉
笑うしかなかった。十五年前、父の介護方針をめぐって兄の周と争い、芙美は家を出た。母が言う「台所の夜」とは、互いに最も残酷な言葉を投げつけた晩のことだ。
遺言には、二人分の施術費と同意書が添えられていた。共有記憶は、当事者全員が同時に削除しなければならない。片方だけが忘れれば、もう片方が記憶を武器にできるからだという。
「母さんらしい。死んでまで仲裁か」
周は吐き捨てた。芙美も同意書を破るつもりだった。あの夜を忘れれば、兄が父を施設へ入れようとしたことも、自分が介護から逃げたことも、何もなかったことになる。
だが遺品整理の最中、冷蔵庫の裏から古い録音端末が出てきた。母が台所に置き忘れたものらしい。再生すると、喧嘩のあとに長い沈黙があり、やがて若い周の声が入っていた。
「俺が悪者になるから、芙美は東京へ戻れ。あいつはここにいたら壊れる」
続いて、母の泣き声がした。
芙美は初めて知った。兄が父を施設へ入れたのは、自分を逃がすためでもあったのだ。あの夜、周は最後までそれを言わなかった。芙美が「冷たい人間」と罵っても、黙っていた。
「どうする」
周が尋ねた。
芙美は録音端末を握りしめた。真実を知った今なら、仲直りできる。だが、その仲直りは母が隠していた言葉に支えられる。兄が十五年守った沈黙を、勝手に美談にしたくなかった。
二人は施術台に並び、「台所の夜」を消した。
目覚めた芙美は、隣の男が兄だという事実は分かったが、なぜ十五年も会わなかったのか思い出せなかった。周も同じだった。二人の間には、理由のない気まずさだけが薄く残っていた。
帰り道、芙美は言った。
「お腹すかない?」
「少し」
二人は実家へ戻り、母の台所で味噌汁を作った。周は芙美の嫌いな葱を、昔と同じように自分の椀へ移した。
芙美はその仕草の理由を知らない。それでも、忘れた夜の代わりに、今夜の食卓を覚えておこうと思った。
録音端末は再生せず、母の遺影の裏にしまった。白紙になったのは過去だけで、兄妹はそこへ、まだ何でも書けた。