金輪だけが光る
甲谷新六は、軍旗の先から金輪を外した。
旗奉行は声を荒らげた。
「御大将の輪だぞ。足軽の手垢をつけるな」
「手垢なら、火縄の煙より目立ちません」
谷向こうに、敵の名手が一人いる。昨日、金輪の真下へ三発撃ち込み、旗持ちを二人倒した。輪が御大将の位置を示すと読んでいる。今夜、御大将は谷底の細道を渡り、包囲を抜ける。その間だけ、金輪は反対側の尾根で光らねばならない。
新六は金輪を粗末な槍の穂先へ嵌め、古い白布を結んだ。本物の旗は金具を失い、葦原の中で低く伏せている。
「囮は三人で行け」と旗奉行が言った。
「三人なら、囮だと分かります」
「一人では旗を守れん」
「守るのは布ではなく、倒れる時刻です」
金輪一つは、新六の十年分の扶持より高い。旗奉行は落とすなと言ったが、彼には自分の命より高い物を丁寧に扱う習慣がなかった。安い命は、高い物を目立たせるために使われる。今夜はその値段を、敵にも払わせるだけだった。
新六は尾根へ上がった。月が雲を出るたび、金輪が一瞬だけ光る。谷向こうで火皿の蓋が小さく鳴った。
最初の弾は旗竿を掠めた。二発目は脇腹へ入った。熱はなく、腹の中へ石を押し込まれたような重さだけが来た。
新六は竿を地へ刺した。ここで倒せば、敵は御大将を討ったと思い、谷底へ確かめに来る。早すぎる。御大将の列はまだ細道の半ばだ。
三発目が膝を砕いた。新六は座り込み、竿を肩で支えた。
敵陣から声が飛んだ。
「金輪の下にいるのは誰だ」
「旗持ちだ」
「名を言え。首札に書いてやる」
新六は血を吐いた。
「輪に聞け。あれが大将なんだろう」
谷底で馬の蹄が最後に一度鳴り、すぐ静かになった。渡り終えた合図の梟笛が二声する。
新六はようやく手を離した。金輪の囮旗が尾根へ倒れる。敵兵が歓声を上げ、こちらへ駆け出した。
その背後、谷の出口にある葦原で、本物の旗がゆっくり起きた。金輪はない。だが白地の桔梗は夜目にも見えた。
旗奉行の声が闇を裂いた。
「門を開けろ。御大将を入れよ」